【独普】Hallo! Mein bruder.6日目 「また今度」1
独×普人名パラレル・兄弟設定
だいぶ言葉を濁した後、最初に兄が言った言葉は、
「…悪かったな」
だった。
視線は合わせず、手元にあるグラスを決まり悪そうに見つめている。一度も入ったことのないバーのカウンター席、薄暗がりの中、客の姿がちらほらと橙の影 を揺らしている。天井に設置された四枚羽のファンが闇と灯りと人の気配と酒の匂いを攪拌し、その中で、ギルベルトの謝罪は小さく響いた。
「黙って、出て行っちまって」
俺は答えられない。一度も口をつけていない琥珀の水面に映る、前髪が乱れた自分の顔を見下ろすしかなかった。
走り回って汗まみれの俺とぶつかった男は、ギルベルトの知り合いだったらしい。
俺の形相と驚いたギルベルトの表情を交互に見た男は、空気を察したのか、じゃあまたそのうち、と手を振って立ち去った。残された俺たちの間には二つのボストンバッグが有り、それを挟んで暫しの沈黙の後。
『どっか入ろうぜ』
という兄の希望で、薄暗い路地裏の小さなバーの扉を開いたのだ。
それから再びの、沈黙。破って、悪かったという言葉。
答える言葉を持たず、俺は小さく問いかけていた。
「…さっきの男は、誰だ?」
「ん?ああ、腐れ縁って奴。ちょっと前からこっちに来てるっつうから。話したことなかったか、フランシスってんだが」
「…いや、聞いていない」
そんな名前は聞いたことが無かった。共に過ごした少年時代の記憶を遡っても、フランシスという名前は脳の何処にも見当たらない。
兄が家を出てから出来た友人なのだ、と思った。そうして、家を出てからの彼のことを何も知らないのだ、と思い知った。
友人。暮らし。仕事。生活。俺の中のギルベルト・バイルシュミットは少年の姿からぶっつりと途切れ、数日前に再開したあの瞬間に繋がっている。空白の時間は長く、真っ白なその部分を埋める術を俺は持たない。
ギルベルトは話さなかった。食卓で、庭で。問いかけばかりで何一つ、自分のことを語らない兄。俺の知らない空白に在るものたちは一体どんなもので、人で、時間だったのか。
知りたいと思った。肌が粟立つような焦燥感が背中を駆け上がる。
琥珀色の水面から顔を上げる。視線を、ギルベルトへ。
紫の瞳と正面からぶつかった。いつの間にか、彼は此方を見つめていた。
「兄さん」
「っ……」
呼ぶと、紫色が揺れた。動揺の意を感じ取って、俺は身体ごと向き直る。
「話してくれ、俺にはさっぱり分からない――帰ってきた理由も、出て行った理由もだ」
「だから、住んでたとこが…」
と、そこまで言って、唇が歪んだ。視線が斜め下に逸れる。
この顔を知っている。嘘やはったりは得意だが、俺を相手に何かを誤魔化そうとする時、昔からギルベルトは眼が逃げた。口の端が引きつった。明確な偽りを隠す隙を与えずに俺は白い手首を掴んだ。
ああ、と、溜息のような声が歪んだ唇から漏れた。諦めた、ような、そんな音だった。
「…悪ぃ、悪かった、ルッツ」
全部嘘なんだ――と。
兄は、重たく吐き出した。
「――嘘?」
何が嘘だというのだ。手首を掴む力が緩む。ギルベルトは逃げなかった。薄暗闇のバー、片隅の席のおかげで疎らな客に俺たちの会話は聞こえていない。動きも見えはしないだろう。寡黙なバーテンダーは客への干渉を一切しない。
壁側のスツールに腰掛けたギルベルトは、まるで追い詰められたようだった。俺の影が彼の白い肌の上に重く伸し掛かっているのを見て、ひどく神経がざわつく。
「住んでたアパートが取り壊しになったのは、嘘だ。もともと住処なんてねえんだ」
「な、」
「仕事、転々としてな。別に苦労はなかった。そこそこ楽しくやれてた。仕事場で寝泊りしたりすんのは楽だったし性に合ってた。で、一ヶ月くらい前にまとまった金が溜まって、そろそろどっか落ち着くとこ決めようってんであちこちうろついてて…」
「うろつく、とは、その間何処に寝泊りしていたんだ」
まさか、と思ったのは先ほどの男――フランシスの顔が過ぎったからだ。
あの男の元に居たのだろうか。腐れ縁だと言っていた、ならば別におかしいことはない。けれど先ほどの焦燥感は更にじりじりと俺の背中を焼いた。燃え上がるかという前に、ギルベルトは短く、「車ん中だよ」と答える。
安堵の息が漏れた。――安堵?
「急に、お前に会いたくなった」
硬い独白。思考から顔を上げると、橙の灯りを受けて赤紫の鉱石が床を見ていた。
一度吐き出したならその後はもう、滝のように饒舌だった。
「お前に会いたくなった。賭けだったんだぜ、親父とお袋がいたら俺はあの家のチャイムを押したりしなかった。車庫見たら車ねえし、外から見てもお前しかいねえし。だから、ちょっと顔見てそんだけでいいと思ったんだよ。そしたら単身赴任中だとか言いやがって、お前」
「…ああ…」
確かに言った。両親は揃って長期赴任中だと。
だから、と兄は口を開く。視線が持ち上がった。
「だから、俺はあの時嘘を吐いた。口からでまかせは得意だからな。騙されただろ?」
そう言って、ギルベルトは漸く笑って見せた。薄闇の中、うすい唇が意地の悪い形につり上がったのが見えた。見慣れたその笑みで、心臓の辺りが妙に息苦しいと感じたのは――何故だ?
「何故、そんな嘘を」
「お前と一緒にちょいと生活したくなっちまったからだ。昔みたいに、な」
「俺と」
「そうだ。お前に会いたかったんだよ、お兄様は」
「なら、何故、黙って…」
黙って、出て行ったのか。
その先を紡げなかったのは、心当たりがあったからだ。
避けたのは俺だ。だが兄は、ギルベルトは、そのことを口には出さなかった。代わりに、掴んだままだった手をもう片手で軽く叩いて、逃げやしねえよと笑う。
つい放してしまった。その白い手で、ギルベルトは幾分氷が解けたグラスを掴んで口をつける。喋って喉が渇いたのだろう、半分ほど嵩が減ったそれをカウンターに置き、また喋りだす。唇に、自然と眼が吸い寄せられた。
「住むとこが見つかったからな。黙って出てったのは、こう、なんか言いづらかったってだけだ」
「住む、所?」
「フランシス、あいつな。やたら顔が広ぇんだよ。あちこち歩き回ってっからそこらじゅうに知り合いがいる。職種問わず、危ないオシゴトから不動産やらまで」
「ああ…だから」
「そ。頼んどいたんだよ。お前んちに居座る前だけどな――意外と早く見つかった」
「…出ていく、のか」
「おう」
あっさりと、さっぱりと、明るく。努めて吐き出したのだろう、兄はまだ笑っていた。
「毎日お前の顔を見れなくなるのは寂しいが、ま、いい夢見れたってことでいいんじゃねえか?」
「兄さん、俺は、」
「あそこには帰れねえんだよ、ルッツ」
言いかけた言葉の先を断絶させるように言い放たれた台詞に、俺は思わず身体ごと引いた。肘が弾いてグラスが揺れ、スツールががたりと音を立てる。低く流れるレコードの音楽に亀裂を走らせるかのような不穏な音だった。
見つめた先で、もうギルベルトは笑っていなかった。ただ家には帰れないのだと、眼が言っていた。
そこにあるのは重たい泥のような確執だった。家。両親。出奔の理由。俺の知らない何かがある。それを問うことは出来なかった。ただ、帰れないのだと――両親の帰る場所は自分の居場所ではないのだと、その意思をただ飲み込むしかなかった。
俺はどんな顔をしていただろう。厳しい表情は一瞬で、すぐに苦笑いのようなものに変わっていた。
「そんな顔すんなよ。別に一生会えないわけじゃねえ――それとも、俺の可愛いルッツはお兄様がいないと寂しくて気が狂っちまうってのか?」
「――ああ」
口から、自然と肯定が漏れていた。
はっとして口を押さえる。驚くほどすんなりと、こぼれた、肯定。
「…あ?」
驚いているのは兄も同じだった。瞳が丸く開かれ、口も開いて、間の抜けた表情を晒している。肯定が返されるとは思っていなかったのだろう――俺自身、驚いている。否、驚くことでは、ないのかもしれなかった。
ギルベルトを探しながら、わだかまる自分の感情の整理は半ば出来ていた。
フェリシアーノと、キクの言葉。好きというもの。それは恋愛感情と呼ばれるものだ。
もぬけの殻となった兄の部屋を見て息が詰まった。たった数日、寝食を共にしただけでとうに俺は兄を受け入れていた。そうして、恐らく、求めていた。
あんぐりと口をあけた兄。言わなければ、きっと彼には理解出来ない。
この感情が生物として男性として兄弟として、正しいかと問われれば間違いなく否だ。摂理に反していることも重々理解している。だが、それでも――それでも、俺はもう、
「俺は、兄さんに居て欲しいと思っている――出て行って欲しくない」
「ルッツ…」
「家族としても、そうだが、それ以上に、その、兄さんと共に暮らせたらいいと思う」
耳に届いていた音楽はもう消えていた。鼓膜に届かない。客の静かな会話もグラスの音も、扉の向こうを通り過ぎていく人々の喧騒も聞こえない。
ただ兄を見ていた。兄の呼吸の音だけが耳に滑り込んでいた。そして、こめかみで煩く鳴る心音を聞いていた。
今から言おうとしていることを考えると、まるで頭に火をつけられたかのように身体が熱くなる。こういったことは慣れていない。口にしたこともない。だが今言わなければ一生、吐き出す機会は無い。
返される返事のことを、是か非かどちらかの答えを思うこともなかった。思考回路は完全に停止している。感情だけで口が動く。放した手首をもう一度掴んでいた。俺よりも随分と細い腕だった。
驚いた形のままの眼を半ば睨むようにして、息を吸い込んで、吐き出す。
「恐らく、俺は貴方のことを、好きなのだと思う」