【独普】Hallo! Mein bruder.6日目 「また今度」2

独×普人名パラレル・兄弟設定


  まるで敵同士のように見つめあう。瞳から、ギルベルトの感情を読み取れなかった。
  元々俺はそういったことに疎い。整頓しきれず吐き出した言葉は、天井のシーリングファンにかき回されること無く、静かにその場に留まって、俺と兄の動きの全てを固定させていた。
  沈黙は数秒だったか、数分だったか。
  こくり、と、目の前の喉が動く音さえ聞こえた。
  視線が瞳から、喉へと落ちる。肌の白さに目を奪われた。はは、と乾いた笑いが鼓膜を震わせる。
「…お前、冗談とか言うようになったんだな?」
  びっくりさせんなよ、と、ギルベルトは笑った。声が喉に絡み付いている。かすれた音色に苛立ちがこみ上げた。
  はぐらかそうとする口をふさいでしまいたいと思った。その喉に喰らいついて言葉を奪ってしまいたいと。
  世界には俺と兄しかいなかった。場所を考える余裕は――無く。
  詰め寄った視界で彼がとっさに顔を背けなければ、俺は何をしてしまっていただろう。
  掴んだ方とは逆の手で、俺の額が押されていなければ。
「っ…!」
  ぐい、と押された圧迫感で顎を引く。掌の温度は低かった。アルコールの熱すら無かった。
  押し戻されるままに、いつの間にか浮いていた腰をスツールに落とす。鼓膜が開き世界が広がり、外部へと五感が開いていった。声、音、感触、兄以外のもの。だが今、それらは必要だろうか。重要なことはたった一つしかないと、焼ききれた理性が狂った声で叫んでいた。
  離れても放せない、左手と右手だけが繋がっている。
  紫の瞳は、強張ったまま俺を睨んでいた。
「…駄目だ、ルッツ」
  低い声は、拒絶だった。
「言っただろ。俺の帰る場所はあの家じゃねえ」
  ――あそこには帰れない。
  そう言い放たれ、頭がかっと熱くなった。そのまま殴ってでも連れ帰りたいと思った。聞く耳など持たずに連れ帰ってしまいたいと思った。それをせずにすんだのは、睨む瞳が見たことも無いほど強い光を浮かべて――泣き出しそうにすら、見えたからだ。
  Nein. Nein. Nein――拒絶に頭を殴られたような錯覚。
  それでも未練がましく、掴んだ腕を放せない。ああ、俺はやはりこの人を愛しているのだ――性別も血縁も関係無く。すがるほどの想いで。
  その腕を見下ろし、ギルベルトはかすれたため息をついた。そうして、短い瞑目。
  開いた瞳は、懐かしい少年時代と同じ、弟を慈しむような色を浮かべていた。
「…俺も、お前が好きだぜ。ルッツ」
「弟だからか」
「関係ねえよ。お前はお前だ。じゃなきゃあの家にまで覚悟決めて会いに行ったりしねえよ」
「だったら、」
「でも駄目だ。あそこは俺の家じゃない。お前の言うことだったら何でも叶えてやりてぇ。けどな、俺は絶対に戻らないつもりで出て行ったんだ。だから帰れない。俺の親父は、あの人だけだ」
  あの人――また、俺の知らない人物の存在が唇から零れてくる。
  苛立ちと共に、思い知る。今の兄は、俺の記憶にあるものだけで構成されているわけではないことを。
  寂寥が広がる一方で、貪欲にもなった。知りたいという欲が育つ。空白を埋めて、そうしてこれから先のすべてを知って行きたい、有り得ないほどの我侭が言葉にもならずに喉まで競りあがっていた。
  それを叶える為、俺は何が出来る。帰れないギルベルト。固い意志は砕けない。あの家――では、あの家でなければ?
「…兄さん」
「ん?」
「兄さんがあの場所に帰れないというなら――俺が」
  考えたことが無かった。あそこは生まれてからずっと、俺が住み続けた場所だったからだ。
  季節ごとに咲き誇る花の並ぶ花壇、ガレージ、キッチン、部屋のすべて。目に慣れすぎてこれ以外の場所など思ったことも無かった。不自由も無かった。
  それは、ただ住み良いという理由だけではない。家には兄の部屋が残っていた。
  俺は今までずっと、兄はいつかあの部屋に帰ってくると信じていたのだ。
  それが夢想だったと理解した今、俺が出来ることは。
  そう、俺が。
「――俺が、貴方の帰る場所を作ったら、貴方はそこに根を生やしてくれるのか」
「…あ?」
  呆けた顔をするギルベルトを、再び真正面から見つめていた。
  何も惜しくないと思えた。今の生活、大学、家、全てを捨ててもいいと思えた。代わりにギルベルトと――兄と共に居られるのならば。
「家を出る。兄さんと一緒に暮らせる場所を見つけてみせる。必要とあらば大学を辞めて仕事にも就く」
「ルッツ…」
「あの家ではなく、俺の元へ、帰ってきてくれないか――兄さん」
  ああ、世間ではこれを何と呼ぶのか。プロポーズと呼ばれるものではないのか。
  相手は男性で、兄だ。法律的に結ばれることは出来ない。だが、同じ場所へ根を生やすことは出来る。生活を共にすることが出来る。
  すがる思いで、ギルベルトを見つめた。こんなにも真摯に瞳を交わすのは今日で何度目だろう。
  紫の双眸もまた俺を見、薄闇の中で其処に鏡映る自分の顔さえ見えた。情けない、必死の表情だった。
  やがて、兄は空いた右手を、腕を掴み続ける俺の手の上へ乗せ――ゆっくりと解かせた。
「――ッ…!」
  二度目の拒絶に喉が潰れ、おかしな声が出る。
  だが、自由になった白い手は俺の方へと伸ばされ、頭をぐしゃぐしゃと、かき回した。
「…可愛い面して男前な台詞吐きやがって」
  十年早い、と、ギルベルトは久しぶりに、思い切り唇を吊り上げて笑う。
  それが肯定の笑みなのだと、言葉にならずとも俺にも分かった。
  だが、安堵する前に突きつけられたのは、まっすぐに立てた人差し指だった。
「条件がある」
「じ、条件?」
「そうだ。まずひとつ。大学は辞めんな。きちんと卒業しろ。中途半端は認めねえ」
  …それは中退した人間の言う言葉ではないと思ったが、口に出せる雰囲気ではない。思わず頷いてしまう。
  兄は満足そうに小さく鼻を鳴らすと、更に中指を立てて見せた。
「二つ。黙って出て行くのは許さねえ。きちんと親を説得してこい。俺と暮らすと言ったら確実に反対されるからな、頑張って納得させてからだ」
  …少年時代にも今回のことでも黙って出て行った人間の言う言葉では…いや、だからなのか。兄の眼は真剣だった。その真剣さが、自分のようになるなと言う。深い理由を知れるほど、俺は彼のことを知らない――だから、この時もまた、静かに首肯した。
「その二つの条件をクリア出来たら、俺はお前と暮らしたいと思う。意味が分かるな?」
「…すぐには無理だ、と言いたいのか」
「さすがは俺の弟、理解が早いぜ。お前にドロップアウトなんぞ絶対させたくねえんだ――しかしお兄様はお前の情熱的なくどき文句にほだされちまった。だから、妥協だ」
「条件を満たすまでは、また会えなくなるのか?」
「お袋達がいつ帰ってくるのかわかんねえ場所に、そうそう遊びになんて行けねえよ」
「…そう、か…」
  言葉を短く零して、俺は項垂れた。二つの条件。ギルベルトは純粋に、俺の人生の為にこの条件を出したのだろう。そして、中退と家出という彼の過去を俺に繰り返させたくない程、数年間の空白の時間に苦労をしたのだろう。
  全く――ふざけてばかりいる癖に、こういう所ばかりしっかりしているのだから、何も言えない。
  愛しているという言葉に嘘偽りが無くとも、それでも彼は俺の兄だった。
  兄として弟を、ギルベルトとして俺を。
  疑いようも無く、彼は俺を――大切にしてくれているのだと、思い知った。
「ま、絶対に会えないと決まった訳じゃねえ。こっそり逢引したっていいしな」
「あ、逢引などと、」
「ん?顔が赤いぜ?可愛いルッツ?」
  喉の奥でくつくつと笑い、ギルベルトは狼狽する俺の頭をもう一度掻き混ぜる。崩れていた前髪はもう完全に降りて乱れ放しだ。
  さんざかき回した後に軽く髪を整え、おざなりのフォローをしたその手が、カウンターの下へと伸びる。足元のボストンバッグを持ち上げ、ギルベルトはそこから紙片とペンを取り出した。何かを走り書いて、俺へ差し出す。
  ちらりと見た数字の羅列とアルファベットは、兄の連絡先だった。
  十五センチに満たない紙切れの、細い繋がり。手を掴んでいた時に感じた温度に似たそれを、俺は丁重に懐へ仕舞った。
  小さく頷いて、ギルベルトはスツールから立ち上がった。
「さーて、いい時間になっちまったな」
「…ああ」
  答えて、俺もまた席を立った。さりげなく済ませようとした勘定は、先に立った兄の背中に阻まれてしまった。
  引き出した薄い財布をひらひらと揺らしながら、重たげなバッグを難無く担いだ彼は俺に背中を向ける。問答無用で清算をすませ扉を開く。
  吹き込んだ風は冷たかった。宵色の路地裏に、どこかの店からの喧騒がささやかに響く。
  手の中でビートルのキーを弄ぶ姿を見て、ああ、そういえば車はどうしたのだろうと思った。うっかりとして、ガレージに停めたままだったらいい。そうしたら、否が応でも、あの家に一度は戻らなければならなくなるのに。その時間だけ、肩を並べ歩けるというのに。
  帰路と逆の方向に、彼は足を向けた。そちらに車を停めてあるのだろう。
  このバーの扉の前が、離別の分岐点だった。
「じゃ、な」
「兄さん」
  余りにもそっけない言葉を残し、去ろうとする背中へ声をかけた。
  かつんと靴音がとまった。振り向かず、気配で、視線が背後へ向けられたことが分かる。
  何を言うべきか。躊躇う前に、口からは自然と言葉が零れていた。
「…また、今度」
  『今度』がいつになるのか、それは分からない。
  ただ今は、別れではなく再会を。
  搾り出した声で投げかけると、兄は、背を向けたまま軽く手を振った。
「ああ、また今度、な」
  そう言って、細い背中が路地の向こうへと小さくなっていく。
  俺もまた、踵を返した。
  喧騒に混じり足音が遠のいていく。世界はまだ暗い。けれど、何一つ見通しの無かった未来には、まっすぐに道が出来ていた。