ラスティネイルの番人
フィギュア制作なんぞに手を染めていると、手、こと指先への気遣いなどはまずなくなるといっていい。
色が白く皮膚が薄い獏良の指先は、そこだけが少し異質な質感になるほど荒れ気味だった。細かい作業の邪魔になる、と削り続けた爪はかなりの深爪で、温度の変化で少し痛む。そうなって初めて己の手の無惨な状況を知るのだが、年頃の女子ならまだしも獏良は健全なる男子高校生である。割れた爪やたこのできた指、かさかさに乾いた肌に対して、見た目を憂うことはない。悩むとしたらそれは、水仕事をする時くらいだ。
そういうわけで今宵もまた、深爪にしみる皿洗いの時間を、獏良はため息でもって迎えた。
「面倒くさいなー…」
と口に出してみる。無論、向こうのソファのあたりで向こうを向いて退屈そうにテレビを眺めているバクラに聞こえるように、だ。
「めーんどくさーいなー」
口元に手を添えて、さらに分かりやすい呼びかけ。
「誰かかわってくれないかなー」
「却下」
「聞こえてるなら無視しないでよ」
「てめえが名指しで呼ばねえからだ」
と、背中を向けたバクラの答えはにべもない。何が不機嫌なのか、テレビと対面に向き合って、決して獏良の方をみようとしない。
なんか怒らせるようなことしたかなあ。
断られてしまったので、仕方なくキッチンへ向かいながら獏良は思う。しくしく痛む指先を、つくねたまましゃぼん水に半没している皿の隙間へと差し込んでみた。やっぱり、ちくりと痛い。爪と肉の隙間に容赦ないアルカリ性の奔流が染み込んでくる。
そういえば今日、一度もバクラの顔を見ていない。花曇りの日曜日、することがないので昼過ぎからTRPG部屋に引きこもって、だいぶ前から放置していたモンスターフィギュアに手をつけてみた。あまりにも長い期間放置していたので、何を作っていたかも忘れたほどだ。つまりはそんなどうでもいいものに手をつけてしまうほど暇だったわけで、いつもならばいやいやでも暇つぶしにつきあってくれるバクラも今日は乗ってくれなかったわけで。
作業を終え、夕飯を作るために部屋を出て、うっとうしい髪を束ねていたゴムを解きながら伺った先にはバクラの背中。やっぱり一度も顔を見ていない。
再び同じ思考。なんでかなあ。
ものごとを深く考えたり悩んだりするのは苦手だ。そんなうだうだしたことを繰り返すより、原因を真っ向から追求した方がいいに決まっている。
ならば決断・即実行。
泡だらけの皿、最後の一枚を水切りに放ってから、獏良はとてちてとソファの傍らへ向かった。
「バクラ」
「あんだよ」
そっぽを向いたまま、声だけが返される。交流する気はあるらしい。
ならば質問、問一だ。
「何でさっきから向こうむいてるの?」
「………」
問二。
「ボク、何かしたかな?」
「………」
黙秘権を行使されて、知りたい答えに辿り着けない。獏良はむっと頬を膨らませて、何なんだよ、と刺々しい声で文句を言うことにした。
「感じ悪っ」
「…そりゃどうも」
吐き出した嫌な声にも、バクラの背中は変わらない。一体何なの気分悪いなあ。そう連ねてみても、目つきの悪い視線はさして面白くもないバラエティ番組にだけ向けられていて、覗き込んでも思い切り目を反らされた。
本当に気分が悪くなって、膨れた頬に更に空気がこもる。
「今日は心の部屋、行かないから」
くるりときびすを返してから言っても、やっぱり視線はこちらを向くことはなかった。
ばたんと荒々しい音がして、獏良の部屋の扉が閉まった。
いち、に、さん。三秒待ってみるが再び開かれる気配はない。それを確認してからようやく、バクラは長い息を吐いた。
(ばれなかった、か)
もっと自然にいつもどおりの態度を取るつもりだったのだが、現実は厳しい。いつばれるかと朝から冷や冷やしていたら、様子がおかしいことは察せられてしまった。それでも視線をあわせることなく無視の態度を取ることで、真意が暴かれるのは防ぐことができた。
(誰が言えるか)
知られてはいけないのだ――面白くも何ともない、下らない享楽を流し続けるテレビを見捨てて、目玉を向けるのは己の両手。
十指が十指、余すことなく見事な深爪。指の先端が爪の先端と重なるくらいの長さが標準的であろうそれらは、五ミリものマイナスを記録している。それはそうだ、獏良は自分の爪に関して全くといっていいほど無頓着である。少しでも伸びて白い部分が生まれると、あー伸びちゃった、とぱちんぱちんやってしまう。その上、切りっぱなしで雑なのであちこち尖ってあるいはささくれて、非常に危なっかしい。
いま目の前にある指は、水仕事のせいでほのかに赤く色を変え、そして――爪は短いものの、その先端はまるく丸く、磨かれていた。
気が付いたのは今朝のことだった。心の部屋での一戦あと、背中がちくりと痛んだのだ。
手を回して触れてみると、浅く傷ができていた。考えるまでもなく犯人は目の前で疲労しきっている宿主サマだ。犯行に使われた凶器は両の爪、しかし、短く切りそろえられているはずなのに余りにも鋭利すぎる。
手のひらから指先へ注視していって、そうしてすぐに納得した。ささくれて尖った切っ先、なるほどこいつのせいか、と一人頷く。
強いて言うならそれが理由だ。獏良が目覚める前にその肉体の支配権を奪い、やすりで丁寧に磨いた。それはもう丁寧に、すべての指の先が丸くきれいに整うように。
別に宿主の為じゃない。削りながらバクラは自分自身に言い聞かせた。そうだこれは自分の為にやっているのであって毎晩痛い目にあうのを避けたいが為、つまり自分の為で決してその綺麗な指先を台無しにしている様子がもったいないだとか後々どこかにひっかけて残り少ない爪を傷つけてしまうのではなどと危惧したわけでは、決して、決して、ない。
だったら堂々としていればいい。獏良が目覚める前に身体を手放して、それから視線を合わせないように心がける必要などない。気になるのであればそのみっともねえ爪どうにかしといてやったぜえ、と一言言ってしまえばそれで済んだ。
それが出来なかった理由は、考えたくない。
ぐしゃぐしゃと頭を掻いて、バクラは呻いた。
「…何やってんだ、オレ様は」