【独普】冷えた頬に鋼鉄のくちづけを

 つきつけられた銃口の向こうで、眇められた瞳の色だけが闇のなかで光っていた。
 ひゅう、と息を飲む音が聞こえるまで三秒。爪の先ほどの永遠のような刹那が張り詰めて緩和する間、部屋の中で呼吸をしているものは一つも無かった。
「…ヴェスト」
 吐き出した細い息の後に、名を呼ばれる。銃口が床と口付ける音が、夜の静寂に波紋を作る。
 プロイセンは、部屋の隅で硬く強張らせていた身体から力を抜いた。抜いた、というよりも抜けた、という表現がより似つかわしいだろう。強張った肩が弛緩し立てていた膝が崩れていく。
「何をしている」
 ドイツの低い声に、悪い、と返す声は、問いの答を含んでいなかった。
 差し込む月明かりは無く、窓を開け放していてもカーテンは揺れない。けれどドイツが開いた扉の向こう側、廊下から差し込む橙の明かりが控えめに闇を払い、目の慣れないドイツでもうっすらと部屋の中を視認できた。ただ、明かりの届かない部屋の隅に座り込んだプロイセンの姿は、未だ暗闇に同化したままだ。
 ぎい、と扉の蝶番を軋ませて、ドイツが更に扉を開く。まぶしさにプロイセンが目を細めるのが見えた。
「眠ると言って部屋に戻ったと記憶しているが」
「寝てたぜ。そりゃもうぐっすり」
「そうは見えんな」
 薄闇の中、紫の瞳を見据えたドイツの視線が、すい、と下降する。プロイセンの手の中の銃が、かしゃんと音を立てて持ち上げられ、肩に軽く担がれた。
 さんざ飲み散らかした挙句、もう寝ると言って部屋に引き上げたプロイセンは見事な千鳥足だった。果たして無事にベッドまでたどりつけているのかと様子を見に行ったところ、扉を開いた瞬間に銃口を向けられた。
「チュントナーデ・ゲベーアか」
「そ。俺の愛用の抱き枕」
 年代物だぜぇ?と、プロイセンが冗談めいて笑った。
「そんな目で見んなよ。お前だってイタリアちゃんが隣にいたら落ち着いて寝れんだろ?それと同じ」
「あれが隣にいると余計に眠れん。というか、基本的に同衾しているような言い方をするな」
「またまた照れやがって。うらやましいぜこの野郎。撃っちまうぞ」
 言いながら、プロイセンが再びドイツに銃を向ける。但し、先ほどのような獰猛な目をせずに。
 ため息をひとつついて、ドイツはプロイセンに歩み寄った。銃は向けられたままだ。自然と筋肉が緊張するが、撃つ筈がない。彼が、自分を。
 手で銃口を払い、笑っているプロイセンを見下ろす。
「…酔っていたように見えたが、素面だったとは思わなかった」
「いんや、酔ってる。ばっちり。俺様ちょうご陽気だぜ?今もな」
「泥酔していても銃口が揺らぎもしないというのは、見事だな」
「俺を誰だと思ってんだ、天下のプロイセン様だぜ」
 ははは、と高く笑う声はいつもどおりの無神経なそれである――と、思えたら楽だった。
 声の中に響く虚ろは闇を溶かしたような真空を作る。一人が楽しいと笑う時のそれとも違う。
 手の中の銃。垣間見えた鷲の瞳。闇に解ける輪郭。不意に今の西暦を確認したくなった。あの頃とは違う。今は過去から見た未来であって、舞い戻ることはない。
 不意に。見下ろしたプロイセンのつり上がった唇がひどく、異常に乾いていること気がついた。
 よく見れば首筋は肌が粟立っており、頬に汗が垂れている。酔いの所為とは思えないほどに。
 オスト、と、呼ぶ。何だよ、と彼は軽く返す。
 ドイツは片膝をつき、頬の汗を拭う形で、こめかみに触れた。驚く彼を無視し、指先で確かめた皮膚の下の血管は破裂しそうな心音を奏でている。
「な、んだよ、夜のお誘いか?」
 一瞬声を上ずらせた中に迷いが見えた。困惑だ。
「それとも、寂しくなっちゃったってか?図体ばっかでかくなっても中身はガキのまんまでちゅかー?」
「茶化すな」
「怖ぇ声だすなよ。わかったわかった、ハグしてやっからおとなしく寝ろって。あ、でも一緒に寝んのは駄目な。お前のばかでかくて分厚い筋肉が隣にあっちゃあむさ苦しくてとても眠れねえ」
「オスト」
「あー、ちっちぇ頃はあんなにかわいかったのになーお前。いつの間にかこんなにばいんばいんになっちまって――」
「オスト!」
 繰り返される軽口に終止符。うわべだけの笑みに一喝すると、ぴたりと声が止んだ。
 どれだけ言葉でごまかそうとも、触れたこめかみの心音は騙せない。先ほどよりも酷く速度を上げた血流は、皮膚を破って噴出してしまいそうだ。
 こめかみから離れ、代わりにプロイセンの手に手を重ねる。びく、と、微かな痙攣。
「銃を、放せ」
 ストックを握り締めた指先は温度を失っていた。じっとりと冷たい汗をかいている。
「もう終わったことだ。お前は、もう戦う必要はない」
「…解ってる」
「なら何故それを手放さない」
「だから、抱き枕だって言ってんだろ」
「安眠とは対極の道具だ」
「落ち着かねぇんだよ!」
 今度はプロイセンが叫ぶ晩だった。ドイツの手を払い、肩を突く。筋肉の塊のような男にその衝撃は蚊ほども感じないが――明確な拒絶に、精神がすこし、揺れた。
 プロイセンが足を折って膝を抱える。銃を――今はもう弾も込められないほど歪んだ、がらくたに過ぎないそれを胸に抱え込んで、そうしてまっすぐにドイツを正面から睨み付けた。
「いつもじゃねえんだ、偶にくらいいいじゃねえか、落ち着かねえんだよ!身体が沈み込むほど柔らかいベッドは不安定でバランスがとれねえし、いつもどっかが明るい部屋は他人から丸見えで隠れらんねえ!熱い食い物もうまい酒も、胃の中で収まりが悪いんだ、時々めちゃくちゃ気持ち悪くなって眠れなくなんだ!そういうときにこいつを抱えてると全部忘れられんだよ!どうせもう使い物になんねえライフルなんだ、ちょっと懐かしんでるだけなんだよ!解ってんだよこんなのはもう時代遅れだ終わったことだ、でも俺は、俺には、平和なんてそんなもの――」
 そんなもの。
 怒涛の果てに続く言葉は何だったのか。は、と我に返ったプロイセンが、寸でのところで息を飲んだ。
 紫の瞳にドイツが映っている。鏡を見るように、ドイツは自分の表情を知った。それを見たから――彼は叫ぶのをやめたのだと、解る。
 自分の顔の筋肉はこのように動作するのか、と、場違いなことを頭の隅で思った。驚愕と困惑と、それから、泣きそうな――表情。
 ぎこちない静寂が降りた。絶叫の余韻だけを残して、呼吸の音さえ聞こえないような。
「…悪かった」
 先に言葉を吐いたのはプロイセンだった。
「酔ってんだ。酔っ払いの戯言だ。忘れろ、ヴェスト」
「いや、だが――」
「忘れてくれ、頼むから」
 滅多にしない懇願が、プロイセンの口から漏れていた。紫の瞳が伏せられ、膝の間に埋まっていく。手放さない銃のストックに額を押し付け、押し殺した声でもう一度、頼むから、と、呟きが漏れる。
「一人に、してくれ。泊まりに来た癖にって言うなら、出て行く。だから、少し一人にしてくれ」
「………」
「明日になったら、戻ってる。だからお前も忘れろ」
「…解った」
 そう答えるしかなかった。目の前のプロイセンは、これ以上はないほどの拒絶をまとって膝を抱えていた。
 こんなに小さかっただろうか、と思う。ドイツの記憶に残っているプロイセンは、不遜で不敵で、自信と自尊心の塊だった。今の彼は――こんなにも、小さい。
 自分のしてきたことと彼のしてきたこと、未来の為に国民の為に、成して来たこと――それらすべてが正しいとは思わない。間違ったことばかりだったかもしれない。けれど、目指すものは同じだと思っていた。愛すべき国民の安定と平穏を。どの国も同じことを考えていると。
 けれど、プロイセンは、彼は――
(…否)
 ドイツは、頭を振って故意に思考を停止させた。忘れろと望まれたなら、忘れてやるのが一番良い。正しくなくとも、それが一番良いだろう。
 かつん、と靴音を立てて立ち上がる。見下ろすプロイセンがさらに小さく見える。子供のように。
 しばらくその姿を静かに見下ろし、ドイツは着ていたジャケットを静かに脱いだ。冷えた肩に、それを掛ける。こういう時に相応しい、優しい動作があるのだろうが、彼の頭には知識としてしか納まっていない。常よりいっそう朴訥としてしまった動きで与えたぬくもりに、プロイセンは何も言わなかった。ただ、寄せた膝の間からか細い息のようなものだけが、わずかに零れた。
「…風邪を引くなよ」
 それが、口にできた言葉だった。それしか言えなかったといってもいい。
 返事の無いプロイセンを残し、開け放したままだった扉をくぐり、閉ざす。閉じていく扉の向こうで、蹲った輪郭が再び闇に沈んで、やがて黒く消えていった。