【独普】だから、あと五分だけ圏外で居させて

 ここは隠れ家なのだ。誰にも知られてはいけない。

 東ベルリンの片隅に、その小さな家はあった。
 割れた石畳があちこちの小道を繋ぐ迷路のような界隈の奥、にぎやかな市街地から離れ、経済的に困難な者たちが多く住まう場所。時代から取り残されたような古い造りの建物は、全体的にあちこち朽ちかけてはいるものの、入り口周辺は小奇麗に整備されており荒廃した様子は見受けられなかった。
 電気も通っている。だが、室内に揺れるのは燭台にともされた橙の明りだ。
 スプリングの弱いソファに寝そべり、プロイセンはぼんやりと、天井に浮かぶ影を眺めていた。
 この場所は誰にも教えていない。それこそ、いとしい弟分にも。
 大切なもの――昔から書きとめてきた日記やあまりにもかさばるものは全て、ドイツの家にある地下の倉庫に預けてある。本当に大切な大切なものだけを、この家に置いていた。
 この燭台も、未だ現役で使えるのが不思議なほど古いものだ。よくこの明りの中で親父と話をした。ソファは廃屋から失敬したが、手の届く場所に設えた金属の箱の中には、かつて自分が国の名で民から呼ばれていた頃の品が詰まっている。
 そしてその中に入りきらないたったひとつのものが――向かいの一人がけのソファに、立てかけてある。
 歪んで曲がった銃身。傷だらけのウッドストック。もう使われることもないチュントナーデ・ゲベーア。ドライゼ銃とも呼ばれる。オーストリアやフランスとの戦いで世話になったものだ。正直あまり良いものではない。本当はもっと愛用していた銃があったが、原型をとどめて残ってくれたのはこれしかなかった。シャスポー銃に性能負けした苦い記憶も、連動して蘇る。くそ、と呟いても、誰の耳にも届かなかった。
 そんなドライゼの定位置は、向かいのソファの上。
 それに触れていると安心した。時折嵐のように訪れる不快感を抑えるこの上ない鎮静剤だった。たまにドイツの家へ泊まりに行く時も、こっそりと持って行ってしまうことがあるほどに。
 もしヴェストがここを見たら、どんな顔をするだろうか。そんなことを考えて、プロイセンは唇を曲げて笑った。
 とんでもなく微妙な顔をするに違いない。ドイツはプロイセンが過去を引き摺ることを快く思ってはいない。統一された自分たちはひとつの国であり、もうプロイセンが先頭を切って戦をすることなどないのだ――先にどんな未来が訪れようと決してそんなことはさせないと、ドイツの目はそう訴えていた。
 ブラコンめ、かわいいやつ。と、呟く。言葉とは裏腹に、冷ややかな口調だった。
 過去を否定するのは俺自身を否定することと同義なのに。
 未来はまぶしくはない。ただ真っ白すぎて、見極めようとすると目眩がする。自分の名が刻まれない世界のことを考えるのは気が引けた。分かっている、自分たちはひとつだ。Bundesrepublik Deutschlandという名の国だ。だが頭の片隅で自分はKoenigreich Preussenなのだと主張している部分がある。そんな時は、この隠れ家でゆっくりと息をするのだ。窮屈なタイを外した時のように、大きく息を吸い込んで吐く。そうすると、身体の奥に溜まっていた不穏な空気が、昔のものばかりのこの場所によくなじんだ。鏡を見れば、きっと昔の顔に戻っているだろう。瞳がぎらぎらと輝いて、獰猛な鷲の双眸を取り戻す。
 けれど、それはここでだけの話だ。
 不意に、腰の下で電子の振動がプロイセンを呼んだ。ドイツに持たされた携帯電話からの着信だろう。
 尻のポケットからそれを引っ張り出し、しばらく眺める。ここには似合わない精密機械を、じっと。
 ぱちりと開いて、電源ボタンを押す。急き立てるような振動が止んだ。手を放して床に落とす。
 未来に帰るのは後もう少し先でいい。プロイセンはドライゼを引き寄せて抱きしめ、ゆっくりと瞑目した。