【独普】Aschenputtelは闇の中で踊る
ぎちり、と、音を立てて、ベッドが右側に少し傾いた。
目を開くとそこには闇。自分の呼吸のほかにもうひとつ、押し殺したような細い音を聞く。ドイツは誰何する前に、サイドテーブルの明りに手を伸ばした。
その手を押さえる手はひやりと冷たい。温度だけで、相手が誰なのかを知る。
――その温度が無くとも、この家に今存在している人物は一人しか居ない。いや、突然人の寝込みを訪ねてくるイタリアという存在も頭の片隅にはあったが、彼ならば、こんな潜めた呼吸をしない。
「オスト」
低く呼びかけると、訪問者の――プロイセンの指がひくりと震えた。
「…ヴェスト」
声がかすれている。月明かりの無い室内では輪郭すら掴めず、ドイツは手をつかまれたまま起き上がった。
気配で、プロイセンの顔がすぐ近くにあるのが分かる。呼吸の音が、吐いた二酸化炭素が感じられるほどの距離。夜目の聞くプロイセンは自分の顔が見えているだろうが、こちらは何も見えない、とドイツは思った。
明りを押さえる手は冷たい。その温度が主張していることが分かったので、何も言わず明りから手を遠ざけた。
空いている方の左手を伸ばす。すぐに髪に触れた。濡れている。
「シャワーの後は髪をきちんと拭けと言っているだろう」
平静を装ってドイツは言う。雫を落とすほど濡れた髪は指先よりも冷たかった。
ほんの少し含んだ、咎める声音にプロイセンの呼吸が浅くなる。髪が指を滑って離れたのはドイツが手を動かしたからではなく、プロイセンが動いたからだ。
裸の胸に、手に絡めた髪と同じ温度が押し付けられる。短い前髪、額、身体。右手を押さえていた手が筋肉で覆われた肩を掴む。縋るような力で。
驚いたことに、身体も濡れていた。服を着たままなのに、だ。
ドイツの脳裏に、今のプロイセンの姿が浮かぶ。視覚を塞がれた分リアルに――薄いシャツとジーンズ、食事の席で見た時と同じ服装のまま、シャワーを浴びてぐっしょりと濡れたプロイセンの姿が。
驚きも忘れて、反射で、冷えた肩を引き寄せた。拭くものを、と思う前に身体が動いていた。
「…どうした。何かあったのか?」
「抱け」
「…何?」
抱け、と、もう一度、繰り返してプロイセンは言った。
肩は震えていない。こんなにも冷たいのに。
何があったのか、ドイツには全く分からなかった。就寝の挨拶をした時には何も、おかしな様子など無かったのに。いつものように、笑っていたのに。
ただ、時折、プロイセンが酷く不安定になることを知っていた。それは発作的に起こるもので、原因は些細なことであったり、原因そのものが存在しないこともある。そしてそんな時は、過去の遺物――古い銃を抱えて眠ることも知っていた。そうすると落ち着くのだという主張を否定するだけの言葉をドイツは持っておらず、それを知った時以来、追及するのをやめた。
しかし、こんなことは初めてだった。身体を結んだことは何度もある。親類以上の情を持って――けれど。
「なあ――なあ、俺たちは、ひとつの国、なんだよな?」
聞いたことも無いほど細い声で、プロイセンはちいさく問いかけた。
「俺たちはひとつなんだよな。ひとつの存在なんだよな?」
「…ああ、その通りだ」
「ならどうして、俺はお前じゃないんだ?」
胸の温度がすべる。顔を上げた、のだろう。
不意に、闇の中に赤紫の光を見たような気がした。幽霊のような、魂のような、凍えそうな赤紫の炎を、二つ。
「どうしてだ、なあ」
「…オスト」
「やめろ!」
不意に、プロイセンが叫んだ。同時に、胸板を思い切り殴られた。
冷えた拳の容赦ない一撃は、ドイツの鍛えられた筋肉を強く打った。どこにこんな力が、というくらい強い一撃に肺が詰まる。いつもなら、戯れの攻撃など蚊ほども感じられないのに。
それほど強く打ち付けられた痛みに、ドイツはプロイセンの強い拒絶を知る。東――と呼ばれることへの拒絶を。
「やめろ、その名で呼ぶな――俺は、」
拳が開かれて、肌に爪を立てられる。五本分の、針のような傷み。
血を吐くような独白が闇を静かに裂く。彼自身が裂けてしまいそうな声が。
「俺は、もう国じゃない。お前とひとつになった。なのにお前じゃないんだ。同じなのに東と西で隔てられて呼び合う。あの壁は崩れてなんかいない。俺とお前はちがう。ひとつになった筈なのに」
だから、と繋ぐ言葉に、狂気の一端を見た気がした。ドイツの背中にぞくりとしたものが走る。
偏執的な矛盾が統一を強請る。食い込んだ爪の部分にとろりと垂れる、熱。
「抱け。俺をお前の一部にしろ。俺の中にあるあの壁を突き破って、もう一度、きちんと統合しろ。滅茶苦茶に犯して繋ぎ目なんて分からないほどお前とひとつになるんだ――早く」
「分かった、分かったから、少し落ち着け」
「嘘だ。お前には分からない。俺だって分かりたくない、こんな弱い俺は俺じゃない。誇り高きゲルマンの鷲はこんな無様な姿を他人に晒したりはしない。俺はお前という国の一部だ、Bundesrepublik Deutschlandはこんな――」
「ギルベルト」
呼びかけると、痛々しく矛盾した迸りがぴたり、と止んだ。
国であるという自覚と、もう国ではないという自覚。プロイセンという名。オストと呼ばれること。どれもどこか欠けている。ひどく不安定な存在。それを理解しながらプロイセンはいつも皮肉に笑っていた。全てを受け入れたような顔をして。
いや、実際に受け入れているのだろう。それでも時折、腹に巣食う虫が疼く。いらない思考を呼び覚ます。
もしかしたら、あの銃を持ってきていないのかもしれないとドイツは思った。安定剤のようなあの銃を。よりどころの無い不安は行き場を探して、頭を冷やそうと冷水を浴びて、それでも落ち着かず――恐らく、一等頼りたくなかった相手に行き着いてしまった。
他人に弱みを決して見せたがらないプロイセン。中でも特に、ドイツにその姿を見せることを嫌がる。
いままで執拗に隠してきた。それを押さえきれないほどの黒い感情――
だからドイツは呼んだのだ、仮初の名を。
「ギルベルト」
もう一度、噛み締めるように呼ぶ。
「お前はギルベルトだ。プロイセンでも、オストでもない。何も、恐れる必要は無い――今は、何も」
「…ルートヴィヒ」
震えた声で、プロイセンもまた、呼んだ。ドイツの、ヒトとしての名前を。
「ルッツ」
「何だ、ギル」
それだけで、プロイセンの、指先にまで漲っていた緊張が解けた。
今更、肩ががくがくと震え始める。人間のように――今は、人間そのもののように。
一時的な逃避だということは分かっていた。こんなことを、こんな飯事のようなことをしても、プロイセンの根底にしっかりと居座っている矛盾を取り払うことは出来ない。現実から目を逸らしているだけで、何一つ解決など出来ない。
それでも、安易な逃避に手を出したのは、見ていられなかったから。見ていたくなかったから。
強いプロイセン。皮肉に笑い自由に、楽しそうに振舞う彼。
そうあって欲しいと願っていたのは他ならないドイツだ。寄りかかって欲しいと思いながら、無意識の希望を、押し付けるように――それに応えて、プロイセンは胸を張り続けている。彼の強い矜持と鋼鉄の自尊心と、そして、ドイツの信頼。
三位一体の十字架がプロイセンを縛っている。彼をこうした一端を握っているのは自分だと、ドイツは気づいた。
「ルッツ、ルートヴィヒ」
もっと呼んでくれ――と、彼は乞う。僅か、ほんの僅かだが、その声に媚びるような音が混じっていた。
Koenigreich Preussenでは、Ostenでは決して発さない、他人への甘え。プロイセンは性交の最中でさえ、乞うことを拒む。結局折れて欲しいと訴えるのとは違う声だ。
それを聴いた瞬間に、胸に過ぎた落胆に、ドイツは気づかない振りをした。
今の彼はオストではなくギルベルトなのだ。ギルベルト・バイルシュミット。傷を抱えた自分の兄であり、愛しい恋人。それ以外の何者でもない。そして自分は、ヴェストではなくルートヴィヒだ。自分が今、彼に魔法をかけたのだから。全てから目をそむけるための、稚拙な魔法を。
ギルベルト、と呼ぶ。望まれるままに。
「――明りは、点けないほうがいいな」
胸の辺りで、首が首肯した。それにほっとした自分など居ない。今のプロイセンの顔を見ずに済んで良かった、などと思う者はどこにもいない。
明日になれば元に戻る。それは、確か彼がいつかの夜に銃を抱えて呟いた言葉だ。
そうあって欲しい。強く思って、思ったことを、無かったことにする。
忘却の中でしか言えない、責務を放棄した甘さでもって、ドイツは――否、ルートヴィヒは、ギルベルトをきつく抱きしめた。