【キメラ・幼少黒城】Pigeon bloodの亡霊
ぽたり と
滴り落ちる生命の水
一滴跳ねる度に 一滴ずつヒトでなくなってゆく
一滴跳ねる度に 一滴ずつ変化してゆく
ヒトであった短い生涯を終えて
生き物ではない者へ
良き者ではない物へ
この身を巡る紅を全て搾り出して
絶望の色をした灼熱の闇が巡る
死神の名を冠して
死ねぬ神の名を冠して
漆黒に染まった拳を振りかざし叫ぶ
闇色の下僕を従えて
死神は討つ 神を討つ
神となった男を討つ
嘗てヒトであった残骸を焼却する為に
夜毎醒め遣らぬ悪夢を払拭する為に
生命にしがみ付く幼子を断ち切る為に
ルビーの外套に包まれて眠る夢を
赤い唇から零れる 吐き気がする程の甘い言葉を
断絶する為に 神を討つ
安寧の記憶 その影を断ち切るために
『 凶 死 郎 』
甘菓子のような声に耳を塞ぐ
今も尚この身を焦がす Pigeon blood の亡霊
『凶死郎』
よく通る、女性にしては少しばかり低い声で名を呼ばれ、凶死郎は振り返った。
昼尚暗く夜は闇を敷き詰めた様に暗い、人々に忌み嫌われる死神の城の奥。石の回廊は靴音も高く響き渡るというのに、女は物音もせずに静かに、少年の背後へ歩み寄ってきた。
『キメラ』
何か用か、と問いかける代わりに、女の名を呼ぶ。一歩足を引くのも忘れない。
彼女だから警戒している訳ではない。誰を相手にしても、凶死郎は対峙する人間と身体一個分の空間を取る。
逃げやすいように。大人の手は長く、少し伸ばせば簡単に腕を掴まれる。肩を押さえられる。髪を捕らわれる。つかまってしまう。其れはもう身に付いてしまった習性で、この城でヒトとして扱われる様になった今も、おいそれと矯正できるものではなかった。
此度もその様に警戒の空気を張り巡らせる彼に、キメラは仮面の下で笑った。
『そうびくびくしなくたっていいじゃあないか。取って食おうって訳じゃないよ』
まだ慣れないのかい、と、続けて云われれば、凶死郎は何も返せない。
好きでやっている訳ではない。身体が勝手にそう動くのだ。キメラも、長も、仲間と呼べる者達も、自分に危害を加える心算は無いと理解している。だが、物心付いた時から刻まれているこの行為は、意識よりも強固に凶死郎を頑なにさせる。
其れをも解っているのだろう。キメラはそれ以上何も云わず、身体一つ開けた空間をあっさりと詰め、綺麗に切り揃えられた爪が並ぶ掌で、ぽんぽんと、凶死郎の頭を撫でた。
『一寸付き合っておくれ。いいものをあげるからさ』
『…いいもの?』
『そうさ。おいで、凶死郎』
鸚鵡返して口にする凶死郎へ、キメラは手を差し出す。唇は更に深い笑み。
仮面越しでは解り辛いが、暖かい―――と呼ばれる、笑みである事位は解る。この城の住人は皆顔を隠しているが、其れは悪意を隠す為ではなく傷―――其れは肉体的な意味と、精神的な意味をも持つものだ―――を隠す為のものだと、知って居る。安心して傷を舐め、癒しあえる相手と共に暮らしていても尚、隠せずには居られないむごい傷痕を、彼らは仮面の下に隠しているのだ。
だから、キメラの笑みは嫌いではない。凶死郎は一つ頷いて、身体の警戒を押し留めながら白い手に手を載せた。
『城の皆には秘密だからね』―――と、回廊を歩きながら囁かれ、辿り付いたのは彼女の部屋だった。
部屋は彼女独特の、香水なのか体臭なのか解らない、甘く、少し苦味の在る匂いがした。
キメラが凶死郎の手を離し、代わりに背中を押す。
『目を瞑って、そう、そのままお進み』
云われるままに瞳を閉じる。ついと押され、小さな爪先が扉の向こうへ。
城は古びていても広大で、部屋もそれぞれが広い。一人で使うには些か持て余す程の面積を有している。凶死郎に与えられた部屋もまたそうだが、室内はがらんとした雰囲気で、ささやかな家具と家具の隙間の空白が、やけに寂しげだ。
其の部屋で一等目立つ、曇って使い物にならない巨大な鏡台。
目を閉じ、導かれるままに歩みを進めた凶死郎が立ち止まったのは、その鏡台の前だった。
何だかいい匂いがする。鼻をすんすんと慣らし、小さな眉間に皺を寄せていると、ぽんと背中を叩かれた。
『良いよ、目を開けな』
促されて、目を開ける。がらんどうの部屋。
古びた鏡台には、白い皿に被せられた金属の蓋、という一式が置かれて居た。
『開けてご覧』
どうやらそれが、『いいもの』であるらしい。
見たことも無い物を目の前に、凶死郎は習性で警戒してしまう。
開けたら何か恐ろしいものが出てくるのではないか、開けている隙に何かされるのではないか、悲しい程、反射でそう思ってしまう。
けれどキメラは、凶死郎の肩に両手を置いて、穏やかな笑みを浮かべている。大丈夫だ、此処は危険な場所じゃないと一度言い聞かせてから、小さな手は漸く、恐る恐る取っ手に触れた。
開いた隙間からふうわりと、嗅いだ事の無い匂い。
湿った空気をほんの少しだけ暖めて広がる芳香は、皿の上のいびつなパイから漂っていた。
『…?』
一瞬、其れが何なのか、解らなかった凶死郎の首が傾ぐ。直ぐに菓子だと理解出来なかった。
嘗て盗人の生活をしていた頃、建物と建物の間の薄暗い闇溜まりに身を隠しながら、遠くに其れを見た事があった。
通りの向こうの菓子屋。硝子匣の中に香ばしく焼き上げられた菓子が並んでいるのを見た。
飾り切りされた果実や美しく加工された甘い生地が、まるで宝石のようにきらきらと輝いていた。そして、身なりの良い親子が、其の菓子を買って行く光景も。幸せそうな横顔も。
自分には一生、縁の無いと思っていた物。
『あんたのだよ、凶死郎』
囁かれて、弾けるように振り向いた。
キメラは笑っている。仮面の向こうの黒い瞳が垣間見え、優しい形に細められているのが解る。
俺の? これが? どうして?
如何反応したらいいのか解らず、凶死郎は乾いた口の中で、小さく呟いた。
『…俺、金持ってねぇ』
咄嗟に出た言葉が、其れ。
キメラはきょとんとした顔を―――珍しい表情を浮かべ、数秒。それから、優しい瞳を悲しげに閉じて、莫迦な子だね、と、溜息を押し殺した声で云った。
『嗚呼―――悪かった、悪かったね。いきなりあんたのものだなんて云っても、混乱しちまうのも無理は無い。ごめんよ凶死郎。あんたは私が思ってたよりもずうっと―――ずうっと、いい子だったね。ごめんよ』
そう云いながら膝を屈める、キメラはまるで泣き出しそうな声を堪えているようだった。
振り向いた凶死郎の背にあわせるように、石床に膝を付く。そうして、長い両腕で、小さな背中を抱きしめた。
『売るんじゃない、あげるんだよ。これはあんたのだ。あんたにあげたくて、私が作ったものだよ。売物じゃない―――解るかい?』
『あげる…』
口の中で繰り返す。
物、とは、奪うか盗むかのどちらかで手に入れるものだ。少なくとも、凶死郎にとってはそうだった。
だからこの城に来て、衣服を与えられ部屋を与えられた時に、こいつらは一体何を企んでいるのかと随分疑ったものだった。何もしていないのに物を与えられるなんて、考えられない。
けれどキメラは、硬直したままの凶死郎を強く、切ないほど強く抱きしめて、間近で一層悲しげに、愛おしげに笑った。
『今日は、あんたが来て一年目の日だよ。一年前、あんたは私達の家族になった。そのお祝いだ』
家族としてのあんたが生まれた日なんだよ、と続けると、凶死郎はまだ良く解っていない顔で、キメラを見つめるばかりだ。
『本当は、恰好の良い、甘くて綺麗なやつにしたかったんだけれどね―――ほら、私はちょいと不器用でね。もっとちゃんとした、ふわふわのケーキをあげたかったんだけど』
ごめんよ、と、優しく彼女は呟いた。
小さなパイ一つの為に、彼女が街でどの様な目に合っていたのか。そんな事など欠片も悟らせようとしない声だった。
忌まれ疎まれる死神の城の一員。其れでも、生きる為には街へ出向かねばならない時もある。
自然、月に一度か二度、誰かが傷付かねばならない。その任は交代で大人が行っていたが、長は家族が傷付くのを酷く嫌い、任以外で街へ出る事を禁じていた。其の決まりが無くとも、誰が自ずと傷つけられに出向こうか。キメラもまた例外ではなかったが、この日だけは、出向く必要があった。
可愛い子供の為の菓子。しかし、売ってくれる店など何処にも無い。店へ近づくだけで石を投げられ泥を被せられ、漸く手に入るのは萎びた果実一つきり。
長い髪と帽子に隠れたこめかみに、赤い痣がある事は、誰も知らない。
誰も居ないキッチンで焼き上げたパイは、世辞にも綺麗とは云えない出来栄えだったけれど。
抱擁を解き、先程の表情を幾分和らげてから、キメラは云った。
『食べてご覧よ。自分で云うのも何だけれど、悪くない味に仕上がったんだ』
見た目は悪いけれどね、と、軽く口にする、其の微笑みは暖かい。
凶死郎は反芻するように、言葉を何度も頭の中で繰り返し―――お祝い、生まれた、と繰り返し、やがて、おずおずと、パイに手を伸ばした。
小さく切り分けられた其れを、口に運ぶ。舌に絡まるような味。
煮詰められた林檎の甘さ、さくさくと軽く砕けるパイの感触。知らないものばかりだ。
果たして此れが美味い、というものなのか、其れすら凶死郎には解らなかった。判断基準をそもそも持ち得ない彼には、甘菓子など味覚の範疇外なのだ。
只、染み入るような味だと思った。
味がではなく、何か、別の―――そう、キメラの微笑みをそのまま味にしたような、感覚だった。
『どうだい、凶死郎。美味いだろう?』
頭を軽く撫でられて、凶死郎は殆ど反射で頷いていた。
キメラが笑う。嬉しそうに。
『いいかい、凶死郎。あんたはこれから、私達と一緒に、家族と一緒に成長していく。
だけど、私達と同じように成長していく必要なんか、ないんだよ』
パイを手にしたままの凶死郎の、口元の屑を取ってやりながら、囁くキメラが瞑目していた。
『私達はね、もう駄目だ。そう思っちゃあいけないのかもしれないけれど、多分、もう外の世界に出て行く事は出来ないだろうね。この仮面を取る事は、どうやったって出来ないのさ。
でもあんたは、これからがある。未来がある。楽しい事を沢山見つけて―――決闘、楽しいだろう? 決闘だけじゃない、この世界にはもっともっと、楽しい事があるんだ。其れを見つけて、其れを大切におし。私達は―――そんなあんたを、ずうっと、見守っていたいと思ってるよ』
『楽しい、こと?』
『そうさ。楽しい事。いっぱいあるんだ。私も、少しだけ知ってる―――昔の話だけれどね』
そう呟くキメラの瞳には、郷愁のようなものが漂っていた。
仮面を付ける前の、凶死郎が生まれても居ない頃の記憶を辿っている瞳。けれど幼い凶死郎には、その漆黒の双眸の光が何を意味するのか、察する事は出来なかった。
楽しいことって、何だろう。
小さな頭にはそればかりで、キメラが少しだけ知っていたという其れの意味を問い出したいと、そう思った。
問いを、口にする前に―――遠くで名を呼ばれ、遮られてしまったけれど。
『凶死郎ー! 決闘しようぜー!!』
扉の向こうから、年の一番近い仲間の声が響いてくる。
キメラはああ、と小さく息をついて、膝を伸ばし立ち上がった。
『ほら、お呼びだよ。いっておいで』
『でも、これ…』
そう呟くのは、まだ手にある菓子。皿の上にはまだまだ沢山ある。
キメラはくすりと吐息を漏らして、また、莫迦だねと笑った。手の中の菓子をそっと奪い取り、皿に戻して云う。
『無くなりゃしないよ。取っておけばいいさ。私がちゃあんと、綺麗にしまっておいてあげるから。決闘して、戻ってきたらまたお食べ』
『…わかった』
名残惜しく、砂糖のついた指を一舐め。扉の向こうでは友とも呼べる家族の声が、さっきより近くで聞こえている。
決闘、という言葉に、むずむずと手が疼いてくる。決闘は楽しい。沢山したいと思う。
其れを悟ったのか、キメラに行っておあげよ、と促され、凶死郎は勢い良く駆け出した。
『負けるんじゃないよ、凶死郎。あんたの誕生日の決闘なんだからね!』
茶化した声が、背中に被さる。大きく頷いて、凶死郎は扉を開いた。
『戻ってきたらまたお食べ』
戻ってきた凶死郎を迎えたのは、平地と化した跡地に、焼けた仮面の影。
甘菓子はもうない。
家族も、
仲間も、
母のような彼女も。
だから此れは、妄執だ。
前世を思い出すようなもの。
ヒトではない死神が、ヒトであった頃の記憶を、レコードのように繰り返す。
今や神となった男を屠らぬ限り、赤い亡霊は何時までも、死神の傍らに寄り添い続けるだろう。
悲しげな表情を浮かべて。愛おしげな表情を浮かべて。
恐怖に叫ぶ事も無い静かな悪夢を、繰り返し、繰り返し。
疎ましくも懐かしい、不愉快にも心地良い、たった一度の、生誕と死去の日の夢を繰り返す。
―――クソったれが。
吐き捨てた言葉は誰に。悪夢に。全てに―――幼い自分に。
血のように赤い装束を纏った彼女の、血の通った微笑み。
其れを呪詛の様に受け入れている、自分自身に。
苛立ちに塗れた手で、鬱陶しく零れてきた髪を、死神は乱暴に掻き上げた。
握り締めた掌には、爪が食い込み血を流す。
漆黒ではなく、赤い血液。
ヒトである証。
ヒトである事を捨てた死神の、矛盾した生命の循環。
完璧になれない、肉体と精神。
揺らぎの残る、歪な死神。
嗚呼―――其れでも今宵も、彼は夢を見るだろう。
彼女の胸に抱かれ、菓子を頬張り温もりに浸る、吐き気がする程―――甘い、夢を。
※この作品は、黒城誕生日企画に寄稿した作品です。