【G・W】 knock
理由は、ないのだけれど。
張り詰めた空気が住まう場所。天高く空を往く円盤の、その甲板。本来ならば上がるべくも無い其の場所に、影が長く伸びていて。
強い風を孕んで大きく膨れ上がる外套。色彩を絡めては夜の闇に翻り、白い白い滝のような髪は弄られるがままに滑らかに空を泳ぐ。
冷気に叩かれる頬はとっくの昔に色を失っていて、寒さに内側から赤みを浮かべることも通り過ぎた。聖蒼の仄かな瞳は冷たさに揺らぐことなく―――否、揺らぐ事を知らず。皮膚を打つ感覚が『寒い』という感覚なのだと知らぬまま、ただ空を仰いでいた。
漆黒の暗幕に、控えめに投げられた星屑。
何故此処に来たのかはわからない。
Gからの命令が何も無かったので、何もしていなかった。いつものようにただ椅子に座り、敢えて何かしていたというならば「何もしない」をしていた。
窓からの陽光が薄らぎ、黄昏に代わり、夜の帳が落ちる。
次第に部屋が様子を変えていく中で、彼は不変のまま、どこまでもどこも見ずに其処に居た。
そして―――いつだったのだろう。
それすらも解らないが、ふらりと脚が動いた。
爪先は何処かを目指していて、自分でも其の場所が何処なのか、何故そうしたのかも不明のままだ。それでもまるでふわりふわりと、雲の上を泳ぐ動きで、長い回廊を白い爪先が抜けた。
誰とも擦れ違わない夜更。
音を立てて開いた扉の向こうは、窓から見るよりもずっと近い空が迫っていて。
遠くで燃えている星が、此方に向かって堕ちてきそうなほどの距離だった。
常ならば―――恐怖さえ感じるほどの。
何故此処に来たのかはわからない。
導かれた、のでもない。本来彼を導くはずの男は消えたままで、黒衣の裾は此処に無かった。
裾の持ち主が教えていないことは、彼には解らない。
『寒い』という感覚も、
『怖い』という感覚も、
胸の奥の奥の、空白の部分のもっと奥の『何か』も。
「こんなところにいたのか、W」
振り返る必要はなかった。すぐさま伸びてきた枯枝の指先が、風を孕む外套の上から彼の肩に触れる。
じわりと広がる、人体が持つ体温。Gの掌から伝わる其れは、何の感覚も産まない。
「大事な身体だ、戻れ」
「解った」
素直に頷いて、彼は瞳を下げた。蒼に映り込み瞬いていた光は消え、暗幕の中に吸い込まれる。
一歩踏み出すと、刹那がくりと膝が震えて。倒れそうになる身体を、Gが受け止めた。
「寒いだろう、随分と冷えているな」
羽根の如く軽い体躯を抱き、Gがくつくつと笑う。
背中と腰に触れた黒衣の袖。ああ、これが『寒い』ということ。
新しい感覚に、空白の部分が僅かに埋まる。
『寒い』。
頬の感覚、膝の震え、動かない指先、気づけない胸の疼痛。
其れが―――『寒い』。
「…G」
「何だ、W」
「…とても『寒い』」
凍えてしまいそうなほど。
外側も、内側も、とてもとても。
「そうだろう、こんな場所にいてはな」
何も思わずの突飛な行動だと、熟知しているGはまたしても笑いながら、悴んだ手足でぎこちなく歩むWを支え己も歩んだ。
開け放したままの扉を潜り、冷気は外へと置き去りに。
Gの手が、外側と内側を隔てる其処を、しっかりと閉ざす。
「外へ出る必要はない。いいな、W」
内側の温い空気。
自然と持ち上がった腕が、一番『寒い』場所をゆるりと掴む。
「解った」
応えた刹那、閉ざした扉を叩くのは、誰の手だったのか。