【V×W】Red drop Baccho.

 夜空に散らした星明りを散らすように、海上を人口の光が航く。
 闇色の海原を裂いて、静かな水面を乱しながら、真っ直ぐに進む豪華客船。其の様はまるで暴君のようだ。乗り合わせている乗員が其れこそ、繰り主に『支配者』と名づけられた操り人形であるのだから、傍若無人な波薙ぎも止む無しと云えよう。
 何千人もの客を乗せ、優雅な旅の足となり舞台となる、全長882フィートの巨大な船に、客として乗じているのはたった一人―――厳密に数えるのならば二人であるが、其のうちの一名は繰り主であり、また、『支配者』の影だる者だ―――だけである。
 片手で数えるに余りあり事足りるこの人物を、無事に目的地に送り出す為の運航。
 常識の範囲から外れた使用用途でもって、WとGを乗せた其れは、闇と海の隙間を滑り進んで居た。

「ああ、矢張り高価い酒はそれだけで美味い!」
 酒を飲み下す音と下品な笑い声が、広い部屋に嫌というほどに響いた。
 数ある部屋のうちの、最も見晴らしが良く最も豪華なスイートルーム。程よく暖められた一室のリビングに、酒瓶がずらりと並べられたテーブルがある。
 グラスに注ぐ事もせずに酒瓶へ直接口をつけているGの姿を、Wは疑問そうに眺めていた。其の手にはグラスに注がれたミネラルウォーターがあるが、其れは無色透明で、Gの手にある瓶の中身のような、赤い色彩をしては居ない。
「G、それ、何だ?」
 蒼い瞳を訝しげに細め、Wは白い指先で、Gの手元を指さした。
 Romanee-Contiと銘打たれた美酒が、節くれ立った指の隙間から窺える。だがその言語を解読する語力のないWに―――読解できたとしても『酒』というものの概念を教えられて居ないWに、其の物質が何であるのか、理解する術は無い。
 疑問を口にした操り人形に濁った金色の視線を向け、Gはげふりと、気持ちの悪い音を立てて息を吐いた。
「ハッ、お前は知らないだろう。わたしが教えていないからな。これは酒というものだ」
「『酒』?」
 新しい言葉を口にして反芻する姿を、Gは酒気を帯びた瞳で見、にやにやと笑った。
 酒に酔っているのは明らかだ。けれど、Wには何が起こっているのか解らない。何時もならば滅多に荒げた様子など見せない男が、口調を乱し奇妙に高揚している。そのように受け取ることしか出来ない。
 只観察する瞳で見上げるWを見下ろし、下卑た笑みは更に深くなる。
「そうだ、酒だ。精神を酔わせ、思考を淀ませ、全てを虜にする」
 そして最高の飲物だ!
 Gは若干の呂律を狂わせた調子で、勢いよく酒瓶を振り上げた。殆ど中身が残っていなかった瓶から赤い液体が滑り、Wの胸元に、赤い染みを点々と浮かばせる。
 汚された―――と、怒りを覚えるようには出来ていない。
 Wは、そういった反逆の意を持つ感情を、Gに向けぬように躾けられている。此れが他の者の仕業であったなら、Wの名に相応しい傲慢さでもって、不埒者を腰に佩いた剣で突き殺して居ただろう。
 繰り主には絶対服従の、操り人形。
 自らの胸に、膝に飛び散った赤の模様を見下ろし、我侭な唇は文句の一つも零さなかった。
 其の様を眺め、Gはげらげらと笑う。
「そうだな、そうだ、お前はそうして大人しくしていれば良い」
 そうしてまた、耳障りな哄笑が部屋じゅうに響き渡る。
 若し、Gの目が酒気に濁っておらず、常の通り、弄るように舐るようにWの全てを監視していたなら、普段は表情の欠片も変わらない『人形』の瞳に、一欠の不快感が差しているのを察せられただろう。
 この船へ乗り、日本へ立つ前の僅かな邂逅―――Vとの短い交わりの中で、戯れに投げられた彼の言語が、Wの脳の空白に、新しい領域を確立させている。Gには与り知らぬものが、Wの内部に生まれつつあることを、操り主は知らぬままだ。
 歪みに気付かぬ男は空になった酒瓶をテーブルに投げ捨て、別の瓶に手を伸ばしている。
 テーブルに倒れた其れの口から、僅かに残っていた赤色が零れ、純白のテーブルクロスを侵食してゆく。白を侵食してゆく赤を、Wは、ただじっと見下ろしていた。

 ―――『精神を酔わせ、思考を淀ませ、全てを虜にする』。
 ―――『最高の飲物だ!』

 滴り落ちる深い紅が、あの男を思い出させる。
 脳の深いところを痺れさせる、褐色の手指。
 思考能力を奪う、他人の熱い体温。
 見透かすようで不愉快な、真紅の瞳。
 最高というのは、初めて知ったあの『快感』のことか。
 『虜』ならば知っている。下僕のことだ。奴隷のことだ。
 『酒』は虜にするものだとGが云った。
 あいつは僕を奴隷にしようとしている。
 

 なら、あいつは『酒』なのか。

「どうした、何を黙り込んでいる?」
 ぐいと顎を捕らえられ、仰ぎ見る形の蒼い瞳に、Gの顔が鏡映った。
 もともと得意ではない思考を乱され、Wの表情が明らかな不満に歪む。Gは再び哂い、生意気な顔をしていると、Wの頬を勢い良く張った。
「ッ…!」
 痛みに短い苦痛の声を漏らし、教育の賜物か、其れでもWの抵抗は無い。
 ただ、視線はGの手にある酒瓶に向けられており―――其れを察したGが、嘲りを含んだ眼でWを覗き込んだ。
「何だ、飲みたいのか、W? 知らんものを知りたいと思うのか? お前が知りたいなどと?」
 そんな自意識を持たせた覚えはない。
 そう言い放つ、黄褐色の穢れた吐息が、Wの頬を汚した。如何に高貴な酒の香といえども、Gの口腔に満ちて吐き出されれば、汚濁の如き腐臭に過ぎない。
 慣れたが故に、その臭気に顔を顰めたりはしないWだが、別の理由で眉は寄せられていた。
 赤い酒―――そんなもの。
「…いらねぇ」
 そんなものを飲んだところで、あの紅の双眸が嫌味に笑う訳じゃない。
 嫌味に笑って、不愉快な『快感』を刻み付ける訳じゃない。
 其れと同じ『快感』を、あの赤い水如きが与えられる訳がない。
 ―――それなら。
「いらねぇよ、そんなもん」
 自然と、唇からそう零れていた。急に反抗的な態度を取ったWにGは驚き、しわがれた手から酒瓶が滑り落ちる。
 けたたましい音を立てる傍らで、Wはソファから立ち上がっていた。
「ま、待て、W!」
 追い縋る声を背中で無視し、白い背中は寝室へ繋がる扉の向こうに消えた。

 Gに逆らった。逆らってはいけないのに、逆らった。
 其れは、思っていたよりも、ずっと簡単なことだった。
 閉ざした扉に背をつけて寄り掛かり、Wは息を吐く。

『貴様の位は、あの下衆よりも下なのか?』

 交わりの合間に、たっぷりとした揶揄を込めて囁かれた、睦言に程遠い囁き。
 そうだ、自分は位の高い身分なのだ。
 其の事実を初めて『知って』、其れからというもの、Gの挙動の一つ一つに、微妙な不快を感じていた。そして今、其れを明確な態度に表した。けれど、下位の者に不快感を表すことが何の禁忌であったのか。
 『わたしの云うことを聞け』とは、Gが口癖のように云って聞かせること。
 しかし、Gは自分よりも位が低いのだ。位の低い者に、何故従わなければならないのか―――そう、 Gの教えと食い違う、Vの言葉。
 どちらを優先するのかは自意識に委ねられ、Wは初めて、己で決断した。
 意外にも、其れは爽快感を伴っており、自然とWの唇を吊り上げさせた。
「…だって、むかついたんだ」
 鍵をかける。Gが扉を叩いている。耳障りな音から遠ざかる為に、更に奥の寝室へと進み、広い寝台に倒れこんだ。
 滑らかな絹の感触が背を受け止め、見上げる天井には豪奢な飾りが灯りを反射して煌いていた。
 其の中に、あの赤い色彩はない―――此処にはない。
 襟飾りを引き抜き、其処に染み付いた赤い飛沫を認め、Wは其れをひらひらと揺らした。
「あんな赤い水、いらねぇ」
 欲しいのは、と、続く言葉は霧散して消える。
 代わりに思い出すのは、闇の中で貪った熱ばかりだ。

 ―――どんな『酒』より美味い『酒』を、僕は知ってる。

 記憶を振り返れば、ぞくりと背中を駆け上がる、不愉快な高揚感。
 一度だけ交わしたVとの痛みのやり取りは、言葉も感触も何よりも不愉快だったというのに、不快ではなかった。
 痺れて疼いて、堪らないあの痛み。其れが『快感』だとVが耳孔に吹き込んだ息の温度すら、身体で覚えて居る。
 ふるりと首筋が震えて、Wは襟飾りを捨て己の肩を抱き締めた。思い起こすだけで腰が疼く。捩じ込まれた杭の太さが入口に蘇り、堪らなくなって、けれど自慰の方法を、彼は知らない。
 扉の向こうのことなど、もう如何でも良い。自分のこと以外は如何でも良い。
 あの男が欲しい。あの男に与えさせたい。
 浴びるように、咽ぶように、あのテーブルクロスのように浸って仕舞いたい。
 飲み干して、身体の中が全部『酒』になる。
 そうして自分がが『酒』になる。
 Vを虜にする『酒』になる。
 そうして二人もつれ合って酩酊したなら、どれだけの不愉快な快感を得られるだろう。ぞくぞくと首筋を這う期待はまだ遠い。
「―――早く、飲みてぇ」
 ああ、早く全て終わらせたい。
 つまらない任務など早く終わらせて、そうして、あの褐色の肌から赤い瞳から、余すことなくたっぷりと搾り取るのだ。
 快楽をたっぷりと含んだ、Vという名の、緋色の美酒を。
 身体中のもどかしさを吐息に変えて吐き出して、Wは陶然と瞑目した。