寝覚月に月消しの魔法【2016獏良生誕SS】

 机に向かい、椅子に座る。
 引っ越しの時に新調した四足の椅子はキャスターもついておらず、立ち座る時は毎回難儀だ。座面も木製で、骨ばった尻に優しくない。撓らない背もたれに肩甲骨が当たって痛い。書き物机には向かない椅子だと思う。
 それでも獏良はなぜかその椅子が妙に気に入って、飾り気のない椅子を愛用していた。
 いくら寄りかかっても大丈夫そうだったからだ。全力で体重をかけてもびくともしない、しっかりと身体を支えてくれる安定感が欲しかった。
 不安だったのだと思う。
 この椅子に座る時、獏良はいつも、最初にこの椅子に腰かけた時のことを思い出す。
 あの頃、机の上には白い便箋と白い封筒があり、机も椅子も新しかった。何もかもが真新しい中、使い慣れたペンだけが、前に住んでいた頃から引き継いできた愛用の品だった。
 ただの黒インクのペンだ。
 それを、握る。
 書き出す言葉はいつも同じ――今は亡き、妹への。
「……しまった、間違えた」
 思わず獏良は独り言を吐いた。うっかりいつもの――以前の癖で、書き出しに妹の名前を書いてしまった。修正ペンを使うかどうか迷って、やっぱりやめる。書き損じをくしゃくしゃと丸めてゴミ箱へ。もう妹への手紙は書かないのに、ついやってしまった。
「なんて書けばいいんだろ、Dear? 何か違うな」
 くるくるくる、と、獏良の指の間でペンが回る。
 ここに座るとどうにも昔の、一番不安定だった時期の自分がぶり返してしまって困る。まるで背骨に沿ってすう、と滑り込むように、背後から高校生の自分が入り込んでくる。不安で、寒くて、怖くて、不可思議で、振り回され続けたあの日の気分に戻ってしまう。机に向かって俯くとき、肩にかかるひと房を払う動きを自然と、する。
 あの頃とはもう違うのに。
 あの頃とはもう違うから、ペンを取ったのに。
「まあいっか、適当に書き始めれば……」
  ――髪を、切って。
 以前の自分をも、一緒にさぱりと切り落とした。
 高校の階段を上りきった時、全て終わったのだと思ったからだった。
 巻き込まれ波乱の中で足掻いた日々は既に遠く、もう二度とあのような、危うい日々を送ることもないだろうと獏良は思う。心を勝手に間借りする不躾な男はもういない。ただ黒いコートだけが、クローゼットの中で静かに眠っている。
 獏良は今、その男に手紙を書こうとしていたのだ。
 一度動き始めればすらすらと言葉が浮かんでくる。そんな程度には思うところのあるあの男へ向けて、真っ白な便箋に右上がりの文字が並ぶ。言いたいことはたくさんあった。全て、何一つ伝えられなかったけれど、水の流れに乗る水車かはたまた風車か、述べ言は尽きない。
(お前が居て、どんなにつらかったか。悲しかったか)
(お前が居なくなって、どんなにつらかったか。悲しかったか)
 いなくなれと思った数は知れない。それが叶ったはずなのに、幼い頃からずっと絡め捕られてきた闇が晴れて喜ばしいはずなのに、寂しくて仕方がなかった。
 せめて夢で逢いたいと願い、叶わない日々の色は灰色で、こんなことになるならば闇の中で一生暮らしていればと唇を噛んだ時の痛みも綴った。
 そして、そんな切ない生活の中で、友と過ごす喜びをもまた得たこと。明るい道を歩くのに不慣れな獏良の手を引いて、陽だまりの並木道を共に歩いてくれる友が居ること。
 その友への縁をつないだのは、皮肉なことにバクラの存在そのものだった。
 今はもう、闇などない光の中での生活に馴れた。それでも忘れたことはない、たとえ濁った思い出ばかりでも、獏良の中ではかけがえのない記憶だ。
 だから今は感謝している。
 彼と出会った全ての因果に、道に、運命に。
 そんな風に思えるようになったよと、書いた。
 寂しかったこともつらかったことも、楽しかったことも、騙された痛みさえ、全てを大切に思っていること――思える自分に、ようやくなれた、と。
 だからいま、今のボクを、お前に見せたい。
 会いたい。
「――忘れてないよ、バクラ」
 筆を動かしながら、獏良は思い出していた。
 何一つ忘れていない。あの日々を。
 そして、妹へ充てた手紙の行方を。
「お前がかけた、魔法のことも」

『バクラ、バクラ聞いてよ、すごいんだ!手紙が!』
 興奮気味に自室から飛び出してきた獏良に、バクラは気のない様子で振り返った。
 振り返るも何も実体すらない半透明の幽霊みたいなものなのだ。そんな人間くさいそぶりなどする必要もないだろうに、バクラは面倒くさそうに欠伸をして、つけっぱなしのテレビに向き直る。
『無視しないでよ、話きいてる!?』
『聞いてる聞いてる。電車遅延だってよ、人身事故だと』
『興味もないくせにニュース見てないで、ちょっと来て!』
 気持ち的には服の裾を引っ張って、自室に引っ張り込む勢いだ。だるそうなバクラがしぶしぶ従い、獏良は開け放した扉の向こう、大きく引き出された机の抽斗へ指を向ける。
『手紙がないんだ、天音への手紙!』
 亡き妹への手紙をしたため、きちんと封をした封筒がそこにはあるはずだった。
 妹に手紙を書いたのは寂しさや不安や、そういった気持ちへの慰めであり逃避――と、同時に、ほんの少しの期待があった。何かどうにかなって、これが本当に妹に届いたらいいと、一匙の希望を込めて封をした。祈るような気持ちで、抽斗を閉めた。もちろん、過度な期待はしていなかった。
 そんな寂しい手紙がどこにもない。一番上のその抽斗は空っぽで、どこからどう見ても何もない。
『天音に届いたのかな、どう思う!?』
『さあな、届いたんじゃねえの』
 耳を小指でほじって吹いて、気のない様子でバクラは答えた。
『抽斗から青い狸が出てくることだってあるんだ、お花畑の天国とやらに届いたって不思議じゃねえさ』
『フィクションの話じゃないんだよ、ほんとの話をしてるんだって』
『じゃあ現実的な話だ。観測問題さ』
 曰く、閉じている抽斗の中で何が起こっているか、抽斗を開けない限りわからない――と、バクラは小難しい理論を唱えた。
 開いている時はからっぽの抽斗は、閉じている時もからっぽか。
 見られないから、わからない。
 その中が永遠の闇に、あるいは宇宙に、天国に、あの世に、違う次元に、つながっているかもしれない。夢みたいなことでも、ないと言い切ることは誰にも出来ない。
 観測出来ない場所で起きていることを、観測することは出来ないのだから。
『【誰も見ていない時に、空に月はないかもしれない】んだよ、宿主サマ』
 意地悪そうにバクラが笑う。
 嬉しそうに、獏良は笑った。
『それならボクは信じるよ、手紙は天音に届いたんだ。ああ、よかった。これからもいっぱい書こう!』
 手を叩いて喜ぶ獏良に、バクラはああそうかよ、とだけ、言った。

「今はもう分かってるけどね、抽斗に魔法をかけたのは、お前だったって」
 くるくるとペンを回し、獏良はあの時よりも穏やかに、笑った。
 簡単なことだった。獏良が手紙を書いていることを、バクラが知らないわけがない。体の良い操り人形が欲しかった彼にとって、獏良が現実でなく死んだ妹や天国や、不思議な空想にのめりこんでいる方が都合がよかったのだろう。だから彼は隠したのだ。或いは捨てたのだ。獏良が眠っている間に、白い長方形をした寂寥と不安の種を、どこかに。
 何度も手紙を書いた。
 その度に無くなった。
 手紙の行方はわからない。このからくりに気が付いた時家の中を探してみたけれど、どこにもなかったので、本当に彼がどこかへやってしまったのだと思う。
「黒ヤギさんたら、読まずに食べた、っと」
 便箋二枚分を書き切って、獏良はぱたんとペンを置いた。
「食べたのかなあ、お腹壊すよねふつう。ふつうじゃないから大丈夫か」
 糊で丁寧に封をして、封筒の表書きには宛名をしっかりと。間違ってもこれが妹宛だと思われないよう、大きな文字で獏良は書いた。
 一番上の抽斗をそっと開ける。空っぽのそこへ、すとんと封筒が滑り込む。
 配達員がいなければ、手紙はどこにも届かない。
 ――本当にそうだろうか?
「お前に届くのかも、届かないのかも」
 閉じたら誰にも、わからない。
 わからないうちは、魔法はとけない。
 この木製の長方形の中身が、ぐにゃりと蕩けた果てない闇に、はたまた煌めきうねる宇宙に、花咲く天の国につながっている。
 そう思っていても、許される。
 だって、誰も見ていない時に、月はないかもしれないのだから。
「どうせ信じるなら、夢がある方がいいに決まってるよねえ」
 ――特別な日ならなおさら、ね。
 ふふ、と、獏良は鼻を鳴らして笑った。
「……届くといいな」
 黒いコートの魔法使い、が。
 机にかけた魔法はまだ生きているのか、それとも死んでしまったのか――やっぱり、祈るような気持ちで、獏良は抽斗を静かに閉めた。
 抽斗に鍵を掛けて、小さな鍵を握りしめる。
 この鍵を無くしてしまえば、永遠に観測はできない。永続魔法を願って、獏良はひとつ頷いた。
 隠す場所は決まっている。
 四足の椅子を床に擦らせないよう立ち上がり、クローゼットを開いて、ぶら下がる黒いコートの合わせ目を掴む。内ポケットに、鍵をぽとり。落とした。
 これで鍵は、闇の中だ。
 少しさびしくて、少し幸せで、獏良は笑った。
 持ち主を無くしたコートに持っていてもらうなんて、なんて確実で、悲しいのだろう。もう二度と袖を通すものが居ない、日の光にも月の光にも当たらないこの外套が、魔法の鍵の隠し場所として最ももっともふさわしい。
 あとは願って、閉じるだけ。
 封筒も、抽斗も、コートしか入っていないクローゼットも。
 しっかりと閉じ、息を吐くと――不意に何かが深く込み上げてきて、獏良は扉に額を押し当てた。
 だめだ、泣きそうだ。喉が苦しい。声が震える。
 絞り出した声が、せつない。
「せっかくの誕生日だもん」
 ――叶えてくれてもいいじゃないか。ねえ?

 

 

 






「おい宿主、机ここに置くぜ」
「そっちじゃないない。こっち、壁際にして!」
「どこでもいいじゃねえか」
「よくない。あ、丁寧に扱ってよ! 年代物だよ!」
「物は言いようだな。ボロ机じゃねえか、っと、あ」
「あ」
「……不可抗力」
「ぶつけないでって言ったのに!あーあー横倒しに…ひどい…」
「はいはい悪うございました、もとに戻しゃいんだろ」
「ちゃんと戻しといてよね。段間違えないでよ! ボクあっちの荷解きしてくるから」
「だから引っ越しなんざ面倒くせえっつったんだよ」
「何かいった?」
「何でもねえよ。……やべ、壊れてンなコレ、鍵穴イカれてやがる。中身出た……ん?」

「――ンだこりゃあ。『拝啓バクラ様』ァ?」