【同人再録】たぶん人生は上々だ。B-1
発行: 2010/05/03
最終回後、盗賊王の姿でバクラが宿主んとこに帰ってくるよ!な内容。なので一応バク獏として書いてます。甘めでえろい。
AとBで前後編。Bはバクラ視点で、バクラが振り回されます。
・小説:書き下ろし
・表紙:平純久至様
ぼんやりとした意識を抱いて目を開いた時、ああまた夢を見ているのか、と思った。
なぜなら目の前にはバクラが居て、自分はその背中につむじをくっつけて目を覚ましたのだから。
きっと都合のいい夢を見ている、どうせ目が覚めたらつまらない現実が待ってるんだ、そう思うと暗澹とした気分になる。それを打ち破ったのは目前に迫った肌の色と頭の向こうに聞こえる呼吸の音がやけにリアルだったこと、そして、カーテンを透かす朝日が紛れもなくここは現実だと明るい光でもって訴えていることの二つだった。
瞬きを何回かして、そうして思い出す。
そうだ、バクラは帰ってきたんだった。
ゆっくりと顔を上げて、上半身を起こす。覗き込むと、眉間に皺を寄せた寝顔がそこにあった。髪が揺れて肌をくすぐったのか、不機嫌な唸り声を上げて、その皺がよりいっそう深くなる。
何をそんなに難しい顔をする必要があるのか、こちらはこんなに気分がいいと言うのに。
悲しい夢はもうきっと見ない。原因はここに戻ってきて、昨晩もきちんと身体で実感した。気持ちいいことは嫌いではないけれど、セックスでこんなにも満足した気分になるのは初めてだった。危うい関係だったあの頃では、いつか終わりが来るのだといつもどこか怯えていた頃では決して味わえなかった充足感はじんわりとこの胸を暖めていて、冷えているはずの裸の肩さえ気にならない。
気持ちの悪いほど穏やかな朝。
だというのに、傍若無人な男はなぜか眉間に皺を寄せている。
まったくもって腹立たしい、ボクがこんなにご機嫌さんなのにお前はそんな顔をして、と、指の先でその皺をぐいと引き延ばしてやった。何やら不満げな声を上げて、バクラが目を開く。気がつかれる前に、指は引っ込めた。
「…早起きじゃねえか」
雪でも降るんじゃねえの。
寝起きの擦れた声でそう言われて、思わず笑った。雪、それもいいかもしれない。もし季節外れの雪が降って積もったら、不機嫌な顔に思い切り雪玉を投げつけてやるのに。その様子を想像して、愉快な妄想に軽く噴出す。
そうして獏良は、おはようの挨拶の前に何と言ってやるか、暖かいベッドの中で十秒ほど思案してから唇を開いた。
1.
初めての物理的な二人暮しなる生活は、絶えずこまごまとした問題が付きまとう。ということを、開始三日目、日曜日の朝から体験しつつ、バクラはフライパンを手に裸足のつまさきでふくらはぎを掻いた。
指先にあたるのは下ろしたてでごわつくジーンズの感触。獏良が約束どおりに買い与えてきた服は、麻布と重たいコートに慣れていた肌に妙な違和を感じさせた。獏良の身体を借りていた時はなんとも思わなかったことだが、これも馴染む馴染まないの問題なのだろう。正直、今のほうが余程、他人の肉体を借りて生活しているような――そんな感覚さえする。絶対似合うといわれてしぶしぶ袖を通した真っ赤なパーカーもまだ肩が凝る。すっかり洗われて部屋干し乾燥の後にクローゼットの奥へとしまわれた一張羅が懐かしかった。
それでもこの格好をしているその理由は二つ。現世であの格好は悪目立ちしすぎるというのは理解できるし、事実、はるか遠いエジプトの地からここまで辿り着く間も夜を狙って闇にまぎれて移動したのはそういう意味もあった。
もうひとつは、獏良が――初日に交わったあと腰が痛い喉が痛い背中が痛いとさんざ喚いていた獏良が、休んでいればいいものを土曜の朝から出かけていってこれらを買い揃えてきたからだ。
妙に嬉しそうな顔で、これ絶対似合うからだのサイズ大丈夫かなだのと言いながらリビングの床にあれこれ並べていくものだから、めんどくせえという一言さえ口に出すことができなくなってしまった。ついぞ見せたことが無い、内側から緩むようなそんな顔で言われては毒気も抜かれてしまう。そういったわけで宿主サマのお気に召すままに、ジーンズとパーカーの姿でバクラはキッチンに立っているのだった。
…いや、キッチンに立つ必要はあっただろうか。なし崩しに朝食の準備をさせられている事に今更気づく。
「バクラ? できた?」
なんて背後から声を掛けられて、こめかみがぴくりと疼いた。
待て。いや待て。なんでオレ様が朝飯の支度をしてやらなきゃならない。そう言ってやりたいのを抑えるのは背後の獏良がやっぱり笑顔を浮かべているということを知っているからだ。夜通し酷使した身体をぎこちなく動かしながらも、朝に弱い獏良が自分から起き出して枕元でゆるんだ笑みを浮かべながら、知ってると思うけどボクはスクランブルエッグより目玉焼きのほうが好きなんだ、なんぞとのたまうのでああまたしてもなしくずしに。かくて握り締めたフライパンの上にはベーコンを敷いた上に黄身半熟コショウ強めの不恰好な目玉焼きが乗っかっている、とそういうわけだ。
振り向くと、思ったとおりに皿を持った獏良がにこにことした表情で待機していた。その首筋には、鬱血と呼ぶにはいささか赤すぎる傷跡がいくつか浮かんでいる。言うまでもなく昨晩バクラが味わい尽くした痕跡だ。隠しもせず、まだ僅かに湿り気を帯びた肌に赤い痕はひどく目立つ。その上、気に入りの長い髪をいく筋か肌にまつわらせて、無防備に晒して、笑顔。ああ、いっそこのままフライパンを放り出して食いついてやろうか――などと、単純明快な思考が頭をよぎった。
「朝ごはんなんて久しぶりだな」
という呟きが聞こえなかったら、躊躇いの一切もなく本気で襲い掛かっていただろう。
ぐ、っと詰まり、しばし沈黙。
結局、
「…ああそうかよ」
そんな負け惜しみを吐き出して、差し出された皿へ目玉焼きをうつしてやることに落ち着いた。
大体こいつは何も分かっちゃいねえんだ、とバクラは思う。長旅の末ここへ辿り着いたその日、獏良は陰鬱な声で恨み言をつらつらと口にしてこちらを見ようともしなかった。そうして伝えられた言葉は要約すれば寂しかったと言っているのは分かったが、それを言うならこちらとて焦がれて焦がれて仕方が無かったのだ。顔を見た瞬間、すぐさま押さえつけてはらわたの奥まで突き破ってやりたいくらいに、目の前の白い痩せた身体が欲しかった。襲い掛かるのを抑えられたのはあまりにも獏良が憔悴していたからで、よく我慢できたものだといまだに自分でも褒めてやりたくなる気分である。
獏良は何も知らないのだ。ごとごとと揺れる密航船の船底で、考えていたのは誰のことだったかなど。残してきた厄介な置き土産の安否ばかりが気にかかって、まあ死んじゃあいないだろうと楽観視する思考と、マンションで一人暮らしの高校生が自殺したと騒ぎになっているんじゃないかという危惧が交互に浮かんだ。その隙間に、ああ触りたいと、脳は勝手に感触と匂いを思い出させた。身体を得て以来、どうにもそっちの欲求がストレートに浮かんでくるのは困ったものだ。昔より複雑になってしまった精神においてけぼりをくらっているのが分かる。その単純な肉欲が求めるのは獏良ばかりで、また困る。
立てた片膝に顎をのせて、揺れる船内で眼を閉じて思い出しては堪らない気分になる。まるい瞳と小さな唇と、貝のような白い耳。つくりは上等、感度も良好。そして気に入りなのがあの髪。くせが強く細くて多くて、指に絡めるとひんやりとつめたく滑らかな白い滝は極上品だと思う。まぐわいの最中に掴むといつもより熱く、湿って肌にまとわりついてくるのも良い。房ごと巻き込んで首筋に噛み付くもの悪くない。ことが終わって疲れきって、意識を手放すように眠ったあとに誰知れず髪を撫でるのも、嫌いじゃなかった。決して獏良には見せたくもないし見せたこともないけれど、そうして毎回撫でていた、あの感触がなつかしい。焦がれて、指が自然と自分の髪に伸びた。だがそこにあるのは乾いて痛んだつまらない自分の髪で、獏良のそれではない。せめて同じ姿をしていたら、多少は気慰みにもなるというのに。
そんな風に苛立ちながらすごした時間の一切を、獏良は知らない。恐らく考えもしないだろう。教えればもしかしたら喜ぶか驚くかするのだろうが、そんなみっともないことが出来るはずも無い。てめえで気づけよ鈍感野郎が。そう思うが、それすら口に出せなかった。
本当に鈍くて困る。今のように無防備に首筋を晒されるのも非常に困る。以前とはもう違うのだ、身体があって、触れようと思えばすぐに実行できる。いちいち心の部屋に下りずとも、手を伸ばせば肌と肌が触れ合う。ちょっとした仕草ひとつで、ばかになったスイッチはあっという間に切り替わってけだものに変わってしまう。なら欲望のままにそうしたらいい、の、だけれど。
(…へらへら笑ってんじゃねえよ)
そう、笑顔が邪魔をする。始終笑っているわけではないけれど、獏良の表情は再会した日からずっと緩かった。どうやら本人も気づいているらしくたまにはっとした風に目を開いて、頬の筋肉を引き締めたり向こうを向いたりするのだが、完璧ではなく大抵はぬるい。それがいけない、衝動にブレーキをかける。まるで首輪をつけられているようでものすごく不本意であるのに逆らえない。絶対的な力を持つ常温の笑みに、ああ、今回もまた抗えなかった。
深い溜息をついて、冷蔵庫から昨日服と一緒に買い込まれた惣菜を取り出す。キッチンむこうのソファでは獏良が座って、じっとこちらを見ているのが視線でわかった。何が楽しいのか、畜生見てんじゃねえ。
居心地の悪い視線を背中に浴びながら、バクラはあちこちから皿やら何やらを取り出していく。そうして気づくのはそれこそ「こまごまとした問題」のひとつだった。
「オイ宿主、皿足りねえぞ」
サラダの取り皿になるような小皿が無い。一人暮らしで加えてものぐさ極まる獏良の家には最低限のものしか置いていないので、新しい同居人に全く優しくなかった。昨晩はやたら出かけたがる獏良に付き合って外で食事をしたのだけれど、自炊にはこんな問題まであるのかとまたしても溜息をつきたくなるバクラだ。
そんなバクラの背中と目玉焼きを交互に眺めていた獏良が、えー?と声を上げた。
「茶碗とお椀があるよ?」
「それは取り皿とは言わねえ」
「いいじゃん何でも。直でいいよ」
「ついでに箸もねえ」
「コンビニのがどっかにあるよ」
と、のたまう獏良はソファから立ち上がる様子もない。ちなみに何故、朝食をとるのにソファなのかというとテーブルには椅子が一脚しかないからだ。低いローテーブルの上に散らかっていたリモコンや雑誌を片づけて、そこに皿を置いていく。その動きをやっぱり獏良はもの珍しそうに、どこか嬉しそうに眺めていた。
用意したのは目玉焼きと惣菜のサラダと、賞味期限が非常に危ういまま放置されていた食パンを救い出してトーストが一枚。ちなみにバクラは三枚。それらを三人掛けのソファに並んで座って食べることにする。
「いただきます」
珍しく獏良がそんなことを言って、手を合わせてこちらを見てきた。無意識だろう、にこりと笑われて、バクラは目を反らす。全くなんだというのだ。
ソファは三人座って丁度いいほどの大きさで、獏良もよくそこでだらだらと横になっている。だが取り戻した身体は分厚く大きいせいもあって、二人でも少し窮屈に思えた。皿を手に取る動きで肘がぶつかって、じんわり伝わる体温に面映い気分になる。
「いろいろ足りないね」
目玉焼きに容赦なく上白糖をぶっかけながら、獏良はふとそんなことを言った。
「まあ、当たり前なんじゃねえの。てめえ一人分で事足りてたんだからよ」
「じゃあ、これからは事足りないよ」
「コンビニ箸でもオレ様はかまわねえけどな」
言って、ざくりとトーストをひとかじり。妙に喉が渇くのは安いパンがぱさぱさしているからなのだと思いたい。グラスの中身をあおる。
ちらりと横に目をやると、砂糖まみれの目玉焼きを器用にトーストの上にのせている獏良の横顔がそうと分かるほどぶんむくれていた。
「何が気に食わねえんだよ」
「べっつにー」
突っ込んでやると、何でもありませんよーだ、と、えらく可愛くない返答がかえってきた。
面倒臭いと思う神経とはまた別に、甘ったるいような気持ちの悪い感覚が込み上げてくる。薄い頬を膨らませてそっぽを向いているその理由など分かりたくない。いや、分からないでおきたい。分からないことにしておこう。
しばらくのあいだ、二人の間に沈黙が落ちた。互いが齧るトーストの音と換気のために開けた窓から聞こえる外からの環境音がしとしとと降り積もり、妙に気まずい空気があたりに充満する。
バクラが三枚めに手を伸ばした時、獏良はようやく一枚目の半分を平らげた。もそもそと進みの悪い口の動きからして、不機嫌な宿主は明らかに食事以外の何かに気をとられているようだ。だが共犯関係が瓦解した以上、ご機嫌をとってやる義理もない。放置して味気ないパンを咀嚼していると、不意に決めた、と獏良が小さく呟いた。
「今日は買い物にいきます」
視線をやると、決意固い意志をこめた青い瞳があらぬ方向を睨んでいた。
「は?」
「食器とか、生活用品とか、そういうのを揃えに一日使うことに決めた」
「昨日出かけたばっかじゃねえか…」
うんざりした顔でバクラは呻く。何が楽しくて、痛む身体を酷使して出かけたがるのだ、理解できない。
もともとインドア全開なのだから、だるいならだるいで一日中怠惰に寝そべっていればいいではないか。そうしたらすぐに触れられるし、不本意ながら世話をしてやらないこともない。もっとも対価はきちんと払ってもらうが。具体的には身体で。
「宿主サマがお出かけしてえっつうなら別に止めねえけどな。留守番くらいはしてやるよ」
「何言ってるの、お前も一緒に行くんだよ?」
口の端についたトーストと上白糖のかすを舌の先で舐めとって、獏良はさも当然、という顔でそう言った。反射でうげ、と呻くと、何か文句でもあるのという視線が投げて寄越される。
「一緒にいろいろするって言ったよね」
確かにそれは初日の一戦後に聞いたが、受諾した覚えは全く無い。
「覚悟してとも言ったよね」
ああそれも言っていた。一体何をするつもりなのか、寝台の上でのことならば全く問題なくむしろ望むところだと思っているが明らかにそれは違うだろう。
内心で心のうちを吐き出しつつも、バクラは黙って目を逃がす。あの目は駄目だ。正面からじっと上目に見詰められると、逆らう気が失せる。
それを理解しているのだろうか。獏良はかがみ込むように身体をこちらに寄せて、知らん振りのバクラを覗き込んで、
「行くよね?」
と、にっこり。
今回の沈黙は短かった。イエスの代わりの溜息は深く、もう今日で三度目になる深い呼吸を、バクラは皿の上に落とすことになった。
「…行かねえとまたぎゃんぎゃんうるせえんだろ、てめえはよ」
必要ねえってのに。
という、最後の言葉はさすがに飲み込んだ。そいつを口にしたらそれこそうるさそうだ。
ふて腐れた後の外出決断の意味など、本当は想像がつく。一緒にいろいろしたいのだと、したこともない甘えた仕草で胸に額を押し付けて伝えてきたことを忘れてなど居ない。つまり宿主サマは初めての二人暮しを満喫したいのだろう、多分。
絶対、と言い切れないのは、以前のように心を覗き見ることが出来ないからだ。ひとつの身体にふたつの魂、寄生と呼んで差し支えない精神的な同居関係だった時には、獏良の思考はバクラ自身と地続きだった。だからこそ、本音も欲望も手に取るように理解できた。今はそれがない――把握しているだけの獏良の性格と表情と声、態度、そんな不確かなもので察するしか、方法が無い。
膨らませた頬に頑固な目。間違っては居ない、と思う。そして、行くと応じた瞬間にまたあの笑みを浮かべるのだからたまったものではない。
もやもやとした名前のつかない落ち着かなさを振り払うように、バクラは手の中にあるトーストの残りを丸めて口の中に放って牛乳で流し込んだ。獏良もまた、最早焼いた卵の砂糖漬けと化したものが乗った残りの一口分をもすもすと噛んで、ごくり。
お互い同時に飲み込んで、ふ、と、視線がぶつかった。
じっと見詰め合う。青と紫がばっちり視線を絡めて、そうしてなぜか、ごく自然に顔が近づく。何故だとかどうしてだとかそういった脈絡の一切合財を捨て置いて、唇が引き合った。
「ん…」
僅かに吐息の形に動く唇が甘い。比喩ではなく物理的に甘ったるい砂糖の味がする上唇を、バクラは胸焼けする気持ちで舐めとった。お互いに手に皿、グラスを持ったまま、首を横に傾けてするキスはどうにも生ぬるくてこそばゆい。ついばむように動かされるやわい唇がやけに積極的に重なりを求めてくるので、互いのそれを擦り付けるように、幾度か温い交歓をした。
昨晩、嫌というほど吸い合った所為か、小ぶりな獏良の唇は少し熱い。内側からほのかに赤く腫れたそれはいかにも美味そうな色をしていて、重ねているうちにいらぬ熱まで込み上げていた。
「…宿主、」
何を思ってか思わずか、バクラは無意識に、なれた呼び名を口にしていた。なに、という形に口唇が応じて、特に呼んだ理由もないのでその合わせ目を舌で探ることにする。んうう、と漏れた小さな声も吸い取って、バクラは手の中のグラスをローテーブルに置いた。身体を捻り、背もたれへ獏良を追い詰める。
「ん…ふ、ぅ」
ぐっと深くなった重なりに、小さな唇は微かな非難の声を上げた。だが片手は皿を持っていて、置こうにも身体は縫い付けられている。砂糖まみれの指がパーカーの胸元を掴むがおかまいなしだ。そんな気分になったのだから仕方が無い。唇を受けた時点でその先を了承したも同然だ、と、バクラはいよいよ本格的に身体を乗り出した。抗われる前に、昨晩たっぷり流し込んだ官能の波を再び引き出してやれば、あっさり陥落するに違いない。そう思って、無駄に大きな掌で首筋を撫でてやる。
「っ、」
ひくん、と、目の前で睫の先が震えた。もしかしたら痛んだのかもしれない、赤い痕の上を撫ぜて鎖骨まで辿り着きながら噛み付いた感触を思い出して、口の端が勝手につりあがる。そのまま弱い箇所を苛めてやろうと寝間着ごしに胸元を探ると、その手をぺしゃん、と皿の裏で叩かれた。
「…何だよ」
くっついた唇のままでそう、不満げな声が漏れた。ここまでさせておいてお預けはないだろう。
「寸止めとか、冗談じゃねえぞ」
「出かけるって言ったでしょ」
と、今しがた擦り付け合った唇でもって獏良は言った。
そのくせ、胸元を掴んでいた手が緩んでぽとりと落ちる。何なんだ一体。バクラがそう吐き出す前に、掌は腿あたり、買ったばかりの真新しいジーンズの生地を、意味ありげにつう、となぞった。
顔を上げると、またまたしてもあの笑顔。いや、多分この顔は狙って、にっこりと笑って見せている。バクラをからかうように、それでも滲む何かを隠しきれて居ない、そんな顔だ。
呆気に取られたバクラの目に、青い瞳がそのまま鏡写る。そこに灯っているのは、紫も青も同じ、お互いに盛り上がり始めてしまった熱の欠片。
思わずごくりと喉を鳴らすと、獏良はそれすら見透かしたように瞳を細めて、だから、と言葉を続けて見せた。
「昼前に出発できるようにしてよね?」