【同人再録】たぶん人生は上々だ。B-2

2.

 足になるものを一切持っていない二人の移動手段は交通機関と徒歩しかない。ほどよくくたびれたスニーカーと新品で落ち着かない靴先を並べて歩く。人ごみでごったがえす日曜日の繁華街を、バクラはうんざりとした表情で、その筋肉を如何なく揮う羽目に陥っていた。
 バクラの両手には三つの巨大なビニール袋と二つの紙袋、獏良の手には薄い買い物メモ。ホームセンターで購入したチーク材のやたらごついダイニングチェア(展示品一品限り)はさすがに配送指定をした。あさって届くらしいので、それまではしばらくソファで食事の生活だ。お前ならもって帰れるんじゃない? と真顔で問われた時には呆れた。出来なくは無いがそれを持って往来を闊歩しろというのか、こいつは。
「あと帰りに一〇〇円ショップに寄ろっか。それで今日はおしまい」
「まだ買うのかよ…」
「最近全然買い物してなかったから。トイレで紙無くて困ったりしたくないでしょ?」
 ひっくりかえして言えば、別離からの三ヶ月間は全く人らしい生活をしていなかった、とそう取れる言葉を飄々と吐いて、獏良はするすると身軽に人と人の間をすり抜けていく。バクラも倣って歩きたいところだが、巨大な荷物と体格が邪魔をする。せめて二つ、いや一つ、荷物を持っていただければとても楽になるのだが。
「手伝うとかねえのか、てめえは」
 そう低い声で訴えると、そのムキムキは一体何のためにあるのさと平然とした口調で返されてしまった。少なくとも、日用品を抱えて道を練り歩く為のものだけでは、絶対にない。
「この歳で腰痛持ちになってしまったかわいそうなボクの為にあると思えばいいんじゃないかな」
「…身体があるってのも考えモンだな」
 あっさりと切り返されて、内心溜息をつくバクラだ。
 以前は物理的なことなど一切考える必要は無かった。出かけるのに付き合っても身体はひとつ、他人に見えない浮遊する姿でもって付き合ってやるくらいでよかった。スーパーの帰り道でさえ、手伝う必要などなかったのだ。それに夜だって後始末がどうだのシーツが汚れるだの、そういった有象無象とは無縁だった。それが今では、事後そのまま寝落ちると朝とても厄介だと知って文句を言われることになる。
 その思考を読んだのかはたまた偶然か、三歩先を歩いていた獏良が、そうだ、と髪をふわりなびかせて振り向いた。
「ついでに言っとくね、今度から中出し禁止だから」
「はァ!?」
「前にも言ったよね、随分前だけど。身体がある分あの時より気持ち悪いんだ。それにお腹下したり毎回後処理するのもいやなの」
 そういえば以前、つかの間の同居生活を送っている時に一度怒られたことがある。中で射精するなと文句を言われ、実際の肉体ではないのだからいいではないかと言い返した時に、朝それで目が覚めると気持ちが悪いのだとのたまられた。鬱陶しいので拒否してやったら、有無を言わさず千年リング納豆漬けの刑に処されたのも、よく覚えている。正直忘れてしまいたい思い出だった。
 反対したなら、今回もまたどんな陰湿な嫌がらせをされるか分かったものではない。全くなんだってこう、いいように扱われなければならないのだ――自重に負けて崩れ始めた紙袋を抱えなおし、バクラはうんざりと口を開いた。
「出す直前に抜けってか」
「何その野性的な方法。お前のやたら濃いのでシーツ汚されるのはごめんだよ。毎日新しいの買ってこなきゃならなくなるじゃないか」
 仕方なく発言した妥協案も一蹴される。洗濯しても絶対落ちない気がする生理的にいや、とまで言われた。さすがにこめかみがびきりと音を立てる。
「ゴムつけろって意味か、そりゃあ」
「現代のセックスの必須アイテムだよ。
 ついでに言っておくけどいきなり突っ込んでくるのも駄目だからね。優しくしてよ」
 と、そこまで言ってから不意に獏良は足を止めて、ううんと小さく唸って眉根を寄せた。何だよまだなんかあんのか、とバクラもいやいや足を止める。
 人ごみが迷惑そうに、或いは無関心に二人の間を通り過ぎていく。今更、往来で話すような内容ではなかったと後悔し始めたのだろうか。別にまわりは全員どうでもいい人間ばかりなのだからそんなことを気にする必要などないだろう、と思うバクラだ。
「何なんだよ」
「自分で言っておいて何だけど、優しいお前とかすごくきもちわるい」
「…………」
 一瞬、本気でぶん殴って放置してやろうかと思った。
 それはもう真顔で、ちょっと見泣きそうな顔で気持ち悪いときたもんだ。一体どんな想像をしたのか、言われたこちらだって怖気が走る。優しいって何だ、そんな行為は今まで一度も、それこそ長く生きてきた数千年の中にだって一度もしたことがない。気色悪い馴れ合いの演技ならまだしも、恋人のようにだなんて吐き気がする。
 あくまで二人の関係は依存と執着であって、甘やかなものなどなにひとつないのだ。獏良が最近やたらひっついてくるのは単なる自己満足だろうし、自分とて世話をやらされているのは拒絶するとあとが面倒臭いから、というひどく合理的な考えからのことだ。だというのにこいつは。
 ビニール袋の持ち手を圧縮する勢いで拳を戦慄かせていると、獏良は軽く首を振ってから、改めて顔を上げて、
「優しくしないでいいから、丁寧にやってよね」
「するのは抵抗ねえんだな」
「しなくていいならしないよ」
「…してえです」
「よろしい」
 と、満面の笑みでこの会話は終了。
 その笑顔にさえ、むらっと来る。このけだもの真っ盛りな肉欲さえ落ち着いてくれたなら、ここまで手玉にとられる必要などないというのに!
 本当に、この厄介な衝動はどうしたものかとバクラは唸る。以前はこうではなかった、もしかしたら肉体の持ち主である獏良自身の影響があったのかもしれないが、それを差し引いたっておかしい。何だって目の前の身体はこうも自分を誘惑してやまないのだ。無駄に笑い、さすがに痕の目立つ首を隠したいのか襟をきっちりと閉じてはいるが髪の隙間からちらちらと覗くうなじや耳の白さ、歩くたびに揺れて分かる、やぼったいジャケットの向こうの細い腰にこれまた年季の入った馴染みのスニーカーとジーンズの間の折れそうな足首まで、気になってやまない。極めつけはやはり髪で、無防備にふわふわとゆらゆらと長い房を揺らして歩かれては目の毒だ。括るか何かしたらいいのに、無頓着な宿主サマは陽光を透かしてきらきら光る白いそれをうっとうしそうに払うだけで、自身に対してまるでぞんざいなのだ。
 執着しているのは互いに同じで、向こうは珍しそうに髪や肌に触れてくる。こちらはそれができないというのに無神経極まりない。まだ感覚がちぐはぐな分厚い掌とごつい指先では、こわれそうなものへの触れ方などもう忘れてしまっている。
 その気になれば原稿用紙一〇〇枚でもいきそうな文句をぶつぶつと思いながら、それでも後の面倒臭さに負けて発言せずにバクラは口を閉ざす。また道を歩き始める獏良の後ろ姿を心底かったるく睨みつけながら、大きさに合わない靴のせいでじくじく傷む足の小指の痛みに舌打った。いっそ裸足の方が遥かに楽だ。
 その舌打ちは恐らく獏良には聞こえていない。だが、宿主サマは相変わらずの奔放な仕草でもっていきなり進行方向を九〇度変更した。
「ちょっと疲れたなあ。お茶してかない?」
 してかない? と一見提案しているように聞こえるが、これは提案ではなく決定である。相手の拒否権は一切認めていない。
「…手ぶらで歩いて疲れたとかほざいてんじゃねえ」
「何か言った?」
「言ってねえよ」
 恐らく今ならうんざりした顔世界一の名をほしいままにできる。そんな口調でもってバクラは返し、のたまられるままついていくことにする。もとより財布を持たないバクラに――ちなみにマンションまで辿り着く間に他人から勝手に失敬した財布やら現金は、やっかいごとを嫌う獏良の命令でまとめて夜中に交番にこっそり置いてきた――選択権などないのだった。
 ここで呆れて付き合っていられないと踵を返してもまず交通費がない。二、三駅ぶんの距離、歩いて帰れないこともないが帰る場所は結局あのマンションで、後のことを考えると以下略。従う理由を考えてから行動する、これではまるで言い訳のようだと自分自身にも腹が立った。
 そんな苛立ちを知ってか知らずか知っても無視か、獏良は手近なファーストフード店を見つけてそちらに向かう。店舗前の看板を見て、限定メニューに目を輝かせている横顔の能天気さといったらない。
「お前の分も買ってきたげるから、席とっといてね。禁煙席の窓側がいいな」
「何食うのかも聞かねえのかてめえは」
「二つ食べたいのがあるんだよ」
 最早突っ込みすら思いつかない。思考の一切をストップさせることにして、バクラは自動ドアの前に立った。
 音もなく開いたドアの向こう、昼食どきを過ぎて人もまばらなレジは目の前だ。
 並ぼうと足を踏み出した獏良が、びた、と足を止める。あ、と、そうと分かるほど狼狽した声を上げて。
「あん?」
 どうしたと問う代わりに、獏良の頭ごしにバクラは視線の先を見やる。注視されていることに気がついたのか、ちょうど会計を終えてレジを離れた人影がこちらを見た。
 特徴的な髪型の彼が、口を開く。

「…ばくら、くん?」

 目を丸くした武藤遊戯は、二人を見上げて、呆けたような口調でそう言った。

「――そうなんだ、そんなことがあったんだ…」
 こんにちは奇遇だねそれじゃあまた今度、と手を振るわけにも行かない状況で、結局同席する羽目になった遊戯に状況説明。ひととおりの話をすると、遊戯は驚いた顔のままでそんな風に息を吐いた。
 獏良の希望通りの、禁煙席窓側の四人掛けのエリアに向かい合って座っている。獏良はそうとわかるほどに表情を硬くして、泣きそうな、困ったような、どうしたらいいのかわからないような珍しい顔つきでもって、視線を斜め下に下げていた。
 一番会いたくない相手に会ってしまった、そんな様子だった。
 思考を地続きに理解できなくなったバクラでも、それくらいは分かる。同じ境遇で敵対する関係を持ち、王と盗賊は勝敗を分け合って同じように千年アイテムは闇の亀裂へ落ちて行った。もう二度と共に存在することの叶わない関係――だったはずの、片割れ。
 それを再び取り戻したのは獏良だけで、遊戯の傍らに凛々しい影は居ない。
 肌の色に、まとう空気に、どこか漂う砂の匂いに、どうしたって思い出してしまうのだろう、遊戯の顔は本人の意識するところとは別の箇所で切なげだった。その表情が獏良を居た堪れなくさせる。
 それだけではない、仲間に反していたことを獏良は黙ったままでいる。告白できるはずもなく、共犯関係が終わってからも言えていないのは態度で分かった。学校へ行かなかったのも、気まずさに負けていたというのもあるのだろう。仲間よりお前を選ぶ、と手を結んだ時に目を瞑って見ないようにしていた有象無象は、全てが終わった後にしわよせが来る。なかったことになどならない。
 獏良は眉を下げて、膝の上で組ませた指をぐじぐじと弄っていた。
 鬱陶しい。バクラは鼻を鳴らして、獏良からも遊戯からも視線を反らして窓の向こうを睨みつけた。
 あんなに底知れないと思っていた憎しみはもうなく、器であった遊戯を見てもなんとも思わない。ただ互いに黙りがちになって、気を使うような空気をかもしだしているのが鬱陶しいだけだ。会話をする気がないのならさっさと食事を済ませて席を立てばいい。事実、バクラのトレーはもうからっぽで、ソースが付着した包装紙が乗っているだけだ。二つ食べたいものがあって選べないと言ったくせに、獏良は自分の分にすら手をつけていない。食うのかとバーガーだけよけておいてやったのに手を伸ばさないので、結局バクラは自分の分としてそれを平らげた。文句も言われなかった。
 それでも、このまま膠着状態を続けるわけにもいかないと思ったのだろう。にこりと笑った遊戯が、安心したよと言った。
「獏良くん、学校休みがちだったから。でももう大丈夫なんだね?」
「う、ん、月曜日からは、ちゃんと行くよ」
「良かった、みんな待ってるよ!」
 本田くんが一番心配してた、と遊戯は自分の分のポテトを摘んで言う。
 口火を切ってもらって踏ん切りがついたらしい。獏良は膝の上から視線を遊戯の方へ持ち上げて、おずおずと口を開いた。
「遊戯くん、あの、こいつのこと、なんだけど」
 こいつ、と、言いながら、テーブルの下でパーカーの裾を掴まれる。何を意味するかは分からず、バクラは横目でちらりと遊戯を見てやるだけだ。
「もう、何もしないから。ボクもこいつも、なんにも」
 ボクも、と口にするのに勇気がいったのか、細い首の喉仏が、言葉の前にこくりと動いた。
 遊戯は少し不思議そうな顔をして、そして、
「うん、心配してないよ」
 そう言って、柔らかいが強い笑顔を浮かべて頷く。獏良はほっとしたような、やぱり泣き出しそうなそんな顔でうんと呟いて、それからようやくバクラの方を向いて――遊戯と会ってから一度もバクラを見なかったのだ――少し首を傾げて、ねえ、と呟くように言った。
「お前だって、もう何かする気ないでしょう?」
 その懇願するような目は、不本意だがぐっときた。ついぞ見せない表情に苛立ちといらない熱がまたしてもぐんと嵩を上げる。何と答えるか考える前に、口は勝手に、さあなァ、とはぐらかす口調で動いていた。
「生憎、オレ様は根っからの悪人なんでな」
 途端、ぱかん! と威勢のいい音とともに側頭部に痛みが走った。
 白い手に掴まれたバクラの空っぽのトレーから、はさはさと包装紙が舞っている。ああ殴られた、と思った時には獏良の胸倉を掴み上げていた。
「てめえ何しやがる!」
「お前が余計なこと言うからだろ! なんで何もしないって言ってくれないの、もう昔のことどうでもよくなったって言ったじゃないか!」
「だからってはいそうですオレ様何もしませんとか言うわけねえだろ! ナメてんのか!」
「こういう時くらい素直に言えばいいでしょ、遊戯くんがいるのに! 何でそうやって人を不安にばっかりさせるの!?」
 知ったことか――そう言って一発くらい叩いてもいいかと拳を握ったその時、くすくす、と笑う声がした。思わずそのままの体勢で動きを止めると、遊戯がおかしそうに、くだけた表情で声を上げて笑っていた。
 獏良が一度バクラを見て、ぐっと唇を噛んでから手を下ろす。いつの間にか立ち上がっていたその足をまるででく人形のように曲げてすとんと椅子に尻を落とし、バクラもつられて席につく。ごめん、と獏良が呟き、それがバクラにではなく遊戯に向けられていたのがまるわかりだったのでまたひとつ腹が立った。
 遊戯はふるふると首を振って、落ちた包装紙を拾ってすぐ脇のダストボックスへ捨てる。
「ううん、良かった。本当にもう悪いことしなさそうだなって思ったよ」
 そんな風に言われて、遊戯はバクラにも、ね? と笑みを向けてくる。毒気を抜かれた気がして、ち、と舌打ち。もうこれで何回目だ。
 居心地の悪い空気から逃げるように席を立つと、獏良がどこ行くのとまたしてもパーカーの裾を掴んできた。便所と端的に答えて手を払う。理由の分からないあやふやな温度を持った視線を背中に浴びて、それを断つようにレストルームの扉を閉めた。
 何だというのだ。気に食わない。
 普段は横柄なくせに気持ちが悪いほど怯えて、隠したいのと打ち明けたいのと両方を持て余した泣きそうな獏良の顔。あんな顔は見たことが無かった。共犯関係の時に生活を共にしていた時にも、こうして戻ってきた数日の間にもだ。
 以前、学校へ行く獏良に付き合って「オトモダチ」と接する宿主サマ、の姿を何度も見た。その時もそんな顔はしていなかった。現在進行形で裏切り行為を働いているくせにそんな風に笑っていられるとはなかなかの役者振りだと思ったが、今の姿はまるで正反対だ。
 それほどあの時間が特異なものだったのか。バクラが獏良了という人間の心に寄生した日からずっと、彼はイレギュラーな日常を日常として生活していたのかもしれない。全ての問題がなくなって、いわゆる一般人になった今だから、あんな顔をするのか。あんな泣きそうな、縋るような、女々しい表情を。
 そんな様を見せるのは願わくはベッドの上だけにして頂きたい。むらっとくるのは事実だけれど、同時にものすごく胸糞の悪い気分になる。理由は分からない――戻ってきてからこっち、理解不能にして解読不可能な感情が山積みだ。ぬるい笑みも甘えた仕草も縋る瞳も何もかもが初めて過ぎて、対応の方法を思いつかない。昔のように嘘と演技でやり過ごしてやれば楽かもしれないが、それももう、無理なのだ。この身体は嘘をつくようには出来ていない。精神がそうしようとしても、手が足が表情筋が勝手に本音を語る。今だってこうして席を立ったのは、あんな獏良を目の前にした自分が次の瞬間にどんな行動を起こすか全く分からなかったから――苛立ちの他に、そんな理由だってあるのだ。
 うまくいかない、面倒臭い、と思いながら、ついでに用を足してバクラは鏡に映る疲れた顔を見た。
 色の抜けた短い髪と褐色の肌、右目を縦断する傷。無骨な身体。真っ白で華奢な身体が鏡に映ることはもうない。それをほんの少し、勿体無く思う。
 昔の方がずっと気楽だった。地続きの感情と依存、執着、そんなものが分かりやすく目に見えた。今ではそれらも分かりづらい。感情は互いに変わっていないと思うが、確たるものは何も無いのだ。欲望で繋がれた糸で絡まった共犯関係、共に起こす罪がもうないなら、彼と自分は一体何で結びつくのか。そもそも?がっているのかすら分からない。それでも、自分の居場所は獏良の隣以外に思いつかない。
 みっともねえ、弱っちい、下らねえ、幾度か口の中で暴言を吐いた。それらは全て鏡に跳ね返って自分自身に返ってくる。最終的にはああもうどうでもいいと思考放棄して、バクラは扉に手をかけた。
 遮断されていた店内の雑音が一気に耳へ入ってくる。眉間に皺を寄せて席へ戻る――ダストボックス前で角を曲がればそこに獏良と遊戯が居る、というところで、バクラはぴたりと足を止めた。
「彼は、獏良くんのために帰ってきたの?」
 そんな風に獏良に問いかける、遊戯の声が聞こえたからだ。
 姿は見えない。しばらくした後、獏良は少し頼りない声で、多分、と答えた。
「何でボクなんだろう、もう身体を貸してやる必要もなくて、悪巧みだってないのに。
 …昔ね、約束したことがあって」
「もうひとりの獏良くんと?」
「うん、その約束をね、果たしにきたんだって言ってた。あいつがだよ? そんなのさ、なかったことにして好きに生きればいいのに、そうしたって不自然じゃない奴なのに、わざわざ帰ってきたんだ」
「…獏良くんは、うれしくないの?」
 その質問に、気配で分かるほど獏良がうろたえたのが分かった。覗き込んでその表情を見てやりたい、そのくらいの動揺だった。知らずバクラは喉を鳴らす。
 そうしてまた暫くしてから、
「…………………嬉しい、よ」
 蚊の鳴くような声で、そう答えた。
(…何だってんだ)
 またしても知らない声だった。そんな弱い脆い声、一体どんな顔でそう言ったんだ俺サマにも見せたことない面を器の遊戯に見せてやがんのかとよく分からない苛立ちが込み上げた。もう踏み込んで髪の毛を引っ掴んでとくと拝顔してやりたい。だがまだ続く遊戯の言葉に爪先は動かない。
「――ねえ、獏良くん」
「なに?」
「ボクともう一人のボクのこと、気を使ったりしてくれなくても大丈夫だからね?」
 その言葉に、獏良が沈黙している。
 これは覗き込まなくても分かる。恐らくまた視線を逃がして、どうしたらいいのか分からない目をしているに違いない。
 そしてきっと、遊戯は射抜くようにまっすぐに獏良を見詰めている。王の器にふさわしい、意志の強い目で。
「ボクらは遠く離れたけど、心は何時だって近くにいる。少し寂しいときもあるけど、つらくないよ。
 すごく、幸せだ」
「遊戯くん、」
「だからそんな、すまなそうな顔で嬉しいって言わないで。もっと笑って言っていいんだよ」
「でも、ボクは」
 何か言おうとした獏良の言葉が詰まる。遊戯が何かして止めたのだろう。
 そうして遊戯は、喧騒が気にならないくらいきっぱりとした強い声で、はっきりと言った。

「君たちも、幸せになってね」